『キリスト教世界観ネットワーク』             

                                                                 

「聖書の語る救いを求めて」:旧約新約、聖書全巻より

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         旧約聖書の流れ

私たち福音派の教会が、政治、ビジネス、芸術、音楽、環境保護等の公の世界に積極的に入っていって変革することに躊躇してしまうのは、
私たちのキリスト教理解の根底にギリシャ的な霊肉二元論があるのではないか、と前ページ聖書の語る救いをもとめて-1-で問題提起しました。
もしそうならば、より聖書的なキリスト教とは、どのような視点を持つのでしょう。旧約聖書の流れを概観してみましょう。
創造
 創造主は、太陽、空気、水、動植物等を造りました。また、それらが有機的に営まれているあり方、システム、秩序も造り、その全てを見て、
「非常に良い」とされました(創世記1:31)。最後に、神は、御自身に似せて人間を造られ、「生めよ、増えよ、地を満たせ、
地を従えよ、...支配せよ」(創世記1:28)とおっしゃいました。
その意味は、「神を愛し、愛と正義に満ち、他の被造世界を愛情深く正しく治める共同体で地上を満たせ」というものです。
地上で人間と共にいて下さる神(2:15, 19, 3:8)が中心で、神・人・自然との愛の関係に生きる人間、
そしてその周りの被造世界というのが、創造本来の「非常によかった」あり方、創造の秩序なのです。
堕落
 ところが、アダムとエバ、また、その子孫である私達は、その命令に背を向け続けてきました。
その結果、地上は偶像礼拝(神との関係)、搾取と戦争(人との関係)、そして環境破壊(地との関係)で満ちています。
今の状態は、神が期待した創造本来の秩序にそったものではありません。人間の罪の結果なのです。
ノア
 地上に悪が増大したのを見た神は、地上の世界を水で一掃されますが、創造の時の計画を放棄したのではありません。
正しいノアを選び、他の動物と共に新しい地に置き、もう水で滅ぼさないと約束し、
創世記1:28の命令を繰り返して地を治めよと命じます(8:17,9:1-3)。
アダムとその子孫に出来なかった、「神を愛し、愛と正義に満ち、他の被造世界を愛情深く正しく治める共同体で地上を満たす」
という神の被造世界に対する計画を、ノアとその子孫に託すのです。二度目のチャンスとも言えるかも知れません。
ノアの出来事は、世界が消滅して、魂が天に行くことの例話にはなりません。 

神が被造世界を保ちその秩序を回復するという、目に見える世界に対するコミットメントの現れなのです。

アブラハム
 しかし、ノアとその子孫も、神の期待にそえませんでした(11章)。そこで、神はアブラムを選び、カナンの地で本来の人間の共同体を作る、
しかも、そのことが全世界の祝福につながる、という約束をします(12:1-3)。
律法
 ですから、旧約の律法を見ますと、先ず第一に、神を愛することが書いてあります。次に、奴隷を虐待せず正しく接すること、
貧しくなった人をどの様に助けるのか等、 イスラエルの社会が、愛と正義に満ちたものになるようにと、書いてあります。     
第三に、6日間家畜を働かせたら、一日休ませる、6年間土地を使ったら1年休ませる、
というように、自然界も正しく愛情深く治めるように書いてあります。無益な森林伐採を禁じてさえいます。
すなわち、神はイスラエルに律法を与えて、イスラエルが神・人・自然との愛の関係に生きる
本来の人類のあり方に近づくようにと願ったのです。律法は創造秩序の回復を目指しているとも言えるでしょう。
ですから、このカナンの地へ向う出エジプトは、魂が天に行くことの例話にはなりません。神が地上を回復することの現れなのです。
預言書
 しかし律法を与えられただけのイスラエルはやはり神の期待にそえませんでした。そこで、神ご自身がメシアを遣わすと預言者達は語ります。
メシアが世界の王となることによって、世界中が、神を愛し、愛と正義に満ち、地を正しく愛情深く治める共同体で満ちる、と預言します。
その地上の姿は、すっかり新たにされているので、新天新地と呼ばれ、それは永遠に続きます。
「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、主の御告げ。」(イザヤ66:22)
まとめ
 以上旧約聖書の流れを簡単に見てきました。旧約聖書の中で、救いとは、魂が天に帰ることではありません。
それは、ギリシャのプラトン主義です。そうではなく、メシアによって地上を創造本来の在り方に回復すること、
それこそが旧約聖書の救いなのです。神は、アダム、ノア、イスラエルの罪にも関わらず、全被造世界への愛、
またその秩序の完成という計画を捨てません。神ご自身がメシアによってそれを成就する、と約束するのです。
 では、この旧約聖書の救いは、新約聖書になるとすっかり変わってしまうのでしょうか?
地上の社会や文化はどうでもよく、魂だけ天に行けばよいという考え方に変わるのでしょうか?そうではありません。
 
 
新約聖書の教え
新約聖書は、そのメシアがついに来た、と宣言します。新約聖書は、神を中心とする創造本来の地上の姿を「神の国」(神の王としての支配)
若しくは「天の御国」(天のような神のご支配)と呼んでいます。
キリスト(メシア)が人として来て、十字架にかかり、復活して下さったことにより、主のご支配(神の国)が地上で始まりました。
そして今、主イエスは、ご自身と一つになったクリスチャンを通して、ご聖霊によって、神の国(創造秩序の回復)を広げておられます。
そして、イエスがもう一度来られる時、神の国が地上で完成し、永遠に続きます(黙示録22:5)。
これが新約聖書の中心のメッセージと言えるでしょう。
主の祈り
 私たちが祈る主の祈りで、「御国に行かせたまえ」と祈らず、「御国を来らせたまえ」と祈るのは、そのためです。
「み心が天で行われるように、地にもなさせたまえ(天の御国)」と祈るとおりです。そういうわけで、旧約聖書と、新約聖書の間に矛盾はありません。
創世記から黙示録まで、聖書は一貫して、地上での御旨の実現を述べているのです。
生活の全領域で
 キリスト教の救いは、魂だけでなく、人間の体だけでもなく、目に見える世界全てを救います。
その救いは、私たちの「地を治める」という使命を回復します。だから私たちは、政治、経済、科学、芸術、音楽、子育て、夫婦の性生活、
そして皿洗いまで、生活の全てを、神のご支配に置き、創造本来の姿に回復しようとするのです。しかもその労苦は無駄になりません。
主は、再び来られる時、私たちの労苦を用い、それを新しい地上で完成させて下さるからです。そして、それは永遠に続くのです。
 
ファッションも
 私と基本的に同じ考えをもっているチャールズ・リングマという人がいます。
オーストラリア出身で、私がフィリピンで奉仕したアジア神学大学院(ATS)で何年も教え、現在は、カナダ、リージェント・カレッジの宣教学部長です。
彼が2001年12月にATSで行った特別講議の中心は次のようなものでした。
「伝道か社会的責任か、という2極化は、キリスト教の幅の広さを二つに絞ることによって狭くしてしまう。
福音は、宣教や政治・ビジネスだけでなく、学問、芸術、音楽、子育て等、生活の全領域を変革していく。」
しかも彼は、「総合的、包括的霊性」という言葉を使い、それらの生活全領域の変革が、神との深い交わりのうちになされる、と位置づけています。
 私の興味を引いたのは50代後半のリングマ師の髪型とファッションでした。
長い髪を後ろに束ね、髭を生やし、ノーネクタイでスタイリッシュなファッションで講義に現れて私を驚かせました。
師によれば「贅沢ではないけれども、美しいものを求めるファッション」ということもキリスト教的な「包括的霊性」の一面と理解している、と言うことでした。
実生活から遊離した霊性でなく、また生活の一部だけの霊性でもない、
実生活の全体を創造性豊かに変革していく霊性が、21世紀の教会と宣教に求められて行くのでしょう。
最後に  最後に、多くの方々が疑問に思う新約聖書の教理や聖書箇所について簡単に触れて、この証しを終わります。
千年王国説
 千年王国説にはいろいろありますが、今まで述べてきた視点は、特定の説を否定したり、支持したりせず、
千年王国の後の新天新地の大切さを語っています。どの千年王国説の立場の人も、新天新地を信じています。
中間状態
 人が死んで復活するまでの期間を中間状態といいます。その間、人はどこにいるかという点では、
パウロは天にいると言っているようであり(エペソ1:21- 24, IIコリント5:1-10)、地下で眠っているという説もあります。
当時の宗教に比べ、聖書は中間状態を詳しく述べていないのが特徴です。中間状態は一時的で不完全な状態だからでしょう。
パウロ
 パウロの強調も、中間状態ではなく、キリストの再臨と私たちの復活です(Iコリント 15章)。
ですから、私たちが切に待ち望んでいるのは、私たちの国籍のある天に行くことではなく、
「そこ(天)から主イエス・キリストが救い主としておいでになる」ことなのです(ピリピ3:20)。
またパウロは、肉体だけでなく、全被造世界の贖いを信じています(ローマ8:19以降、コロサイ1:16- 20も参照)。
彼にとって、被造世界は消滅してしまうのではなく、かえって「滅びの束縛から解放され、
神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るのです (ローマ8:21)。
ヘブル人への手紙
 ヘブル人への手紙の著者によると、クリスチャンは「天の故郷にあこがれ...神は彼らのために都を用意しておられま」す(11:16)。
この都とは、「生ける神の都、天にあるエルサレム」(12:22)で、「後に来ようとしている都」 (13:14)です。
黙示録は、この「後に来」る瞬間を次のように描いています。
「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。
また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(21:2-4).
 それ以降の箇所には、神と小羊が、新しいエルサレから地上を治めている描写が続きます。
ヘブル書の記者は、後の日に地上に降りて来るところの聖なる都を待ち望むように私たちを励ましています。
私たちの目の涙がすっかりぬぐい去られるのは地上なのです。
ヨハネ
 ヨハネの語る永遠の命とは、終わりの日によみがえる命です(ヨハネ 6:40, 54)。
主イエスは、「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」 (ヨハネ14:3)と言われたました。
主が再び来られる時、主は私たちを肉体をもってよみがえらせ、地上におられる主のみ元に住まわせて下さるのです(黙示録21、22章)。
ペテロ
 ノアの洪水によって地上は清められましたが消滅しませんでした。ペテロは、天地が消えてなくなると言っているのでなく、
火によって清められた「正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(IIペテロ 3:13)と語るのです。
最後に
 旧約も新約も一貫して語っているのは、魂だけ天に行くというよりも、全被造世界の回復なのだと、このシリーズで見てきました。
私はここで、自分の意見や解釈が絶対的で正しいと言うつもりはありません。
ただ今までのギリシャ的な見方よりも、より聖書に近いのではないだろうかという問いかけをしてきたつもりです。
そして、この視点の方が、今地上で生きることに積極的な意味を与えてくれると私には思えます。
 例えば、芸術の創作活動を考えましょう。主により頼んで良い作品を生み出そうとする時、それは、証や伝道に役立つかどうか以前に、
それ自体に意味があることになります。キリストの救い自体が、アーティストである神に似せて作られた人間の回復を目指しているので、
福音そのものが、よい創作活動を指向しているということになるのです。しかも、その労苦は、永遠の価値があることになります。
これは、皿洗いから、一国を治めることまで、あらゆる面で言えることなのです。
 今多くの福音派の学者がこの視点で聖書を
読み直していて、様々な成果が出て来ています。
21世紀の福音派のクリスチャンがこの視点に立ち、あらゆる分野で、召命観をもって生き生きと生きていくことを私は夢見ています。

「地上の一時的な世界から霊的で永遠な世界へと魂が逃げだすことが救いである、というギリシャ的二元論と違い、                    
聖書の思想は『地上の存在から離れた天の世界ではなく、人を常にあがなわれた地上に置く』と(ジョージ)ラッドは強調する」




終末の今を生きる 

西方教会(今のカトリックとプロテスタント)は、神との親しい交わりを正しく強調するけれども、
神の被造世界を低くみてしまう影響を強く受けてきました。(新プラトン主義)
そのため、神と一つとなるためには物質世界から離れて天上に行くしかないと誤解し、この誤解は次第に一般的となりました。

特にプロテスタント教会は、感情や身体よりも、理性と魂を上に見る現代主義の影響を強く受けたため、
このプラトン主義的霊性がより強くなってしまいました。神と一つとなることと伝道に対する熱心さは、
聖書的で正しいのですが、この(プラトン主義)の影響を受けて、その内実に歪みが生じてしまったのです。
「あの世的終末論」とプラトン主義の霊性では、全世界は結局消えてなくなるので、地上でなすあらゆることは、
永遠の意味は持ち得ません。
救われた霊魂だけが天国に行き、そこで永遠を過ごすので、地上でなす唯一の価値ある仕事は伝道となります。
すると「証しになるかどうか」だけが問われてきます。
「世俗」の仕事で時間を取ることは、証しにならない限り意味のないことになります。
そして、その他は伝道のための手段となります。友情さえも手段となってしまうのです。
愛を込めて家族のために料理しても、家を注意深く綺麗に掃除して美しく飾っても、愛をもって子育てしても、
貧しく抑圧されている人々を助けても、医療技術を発達させて不治の病と闘っても、環境保護のための市民運動に参加しても、
職場で誠実に質の高い仕事をしても、良い「もの作り」をしても、謙遜に研究をしても、質の高い芸術を音楽を求めても、
結局世界は消えてなくなるので、それ自体では意味がないのです。
そのためクリスチャンは、真剣に、心から、確信と喜びをもって日常の営みができなくなってしまいます。
腹の座った生き方、社会に影響を与えられるような貢献ができず、逃げ腰になります。
そして、伝道と教会生活だけはしっかりやるけれども、政治やビジネス等の残りの全ての生活は、
どうしても周りに流されていくという結果になりやすいのです。
天国ではなくて新天新地において救いが成就されるという聖書理解があるのです。
もし、今の世と、来るべき世が完全に断絶しているのであれば、この歴史におけるあらゆる文化的営みは、究極の意味はなくなり、
極端な言い方をすれば、あらゆることは伝道の手段としての意味しか持たないということになっているのではないでしょうか。

このような考え方は、幾つかの賛美歌や文学を通して私達の間に広がり、私達の聖書解釈に影響与えているだけでなく、
私達の生活にも大きな影響を与えていると述べ、次のように語っています。
この世界から逃げて無時間無空間の天に行くという考え方は創造世界に対して非聖書的な態度をもたらすもので、
環境を守る活動や孤児の世話、また飢えたものに食べさせるという働きに携わるものは
どこか信仰に背を向けているかのように思われてしまう。もっと「霊的」な事をすべきである、と。
あるいは、私たちは、死んだ後に身体は永遠になくなり、肉体は身体のない霊となる、という異端の考えを受け入れてしまった。...
死後は天国に行くのだから、地球の事はどうなってもいいという考えも、非聖書的ではないでしょうか。
この間違った考えのためクリスチャンは、天使の見習いにすぎず、地上という待合い室に今のところ押し込められてはいるが、
本当は天上の、体のない世界に相応(ふさわ)しい者で、そこに行くのをひたすら待っているだけ、ということになってしまう。
と「わが故郷天にあらず」の著者も語っています。
 
つまり、その霊性は、クリスチャンが世の光、地の塩となることをさまたげてしまう、神が望まれているような積極的で創造的な生き方、
本来の人間の生き方の回復を阻害してしまうのではないでしょうか?

 

キリスト教世界観。終末の今を生きる シリーズ1−3より抜粋
『終末を生きる神の民』、「ライフ・ブックレット」、no. 7、いのちのことば社、
1990年, 35. この書は、この小冊子にあるような視点で分かりやすく聖書全体を見直しています。


以下N.T. Wright, New Heavensより。

ギリシャ思想の復活とも言える啓蒙主義が私達の霊性をゆがめ、結果的に私達の生活がかえって世俗化している、
との指摘は今世界中で起こっています。例えば、以前KGKが日本に招いた、
オックスフォード(イギリス)の福音派の学者Alister E. McGrath, A Passion for Truth (Leicester: Apollos, 1996),
特にp.174-75, ゴードン・コンウェル神学校(アメリカ、ボストン)で教えるDavid F. Wells, No Place for Truth (Grand Rapids: Eerdmans, 1993),
リージェント・カレッジ(カナダ、ヴァンクーバー)のCraig M. Gay, The Way of the Modern World (Grand Rapids and Carlisle,
UK: Eerdmans and Paternoster Press, 1998)等です。