2004,10,10

『どうやって荒野でたくさんのパンが手に入りますか?』 
マタイ15:32〜38


序論:

 五つのパンと二匹の魚、七つのパンと少しの魚を施した奇跡は、私たち人間に向かうイエス・キリストの限りない愛を示していると同時に、イエス・キリストだけが人間のすべての問題を解決してくださる満足の源であり、すべての富と喜びをもたらせる祝福の源泉であることを語っています。
イエス・キリストはいつでも、どこでも、私たちにとって永遠の満足です。主は12弟子を野原に連れて行かれ、そこから主は弟子達に向かってご自身が、如何なる存在であるかを知らせたかったのです。主はその荒野で奇跡を行い、主こそ神様から送られた人類の救い主であることを悟らせようとしました。
イエス様は弟子達に向かって「パンが幾つあるか?」と尋ねられた(マタイ15:34、マルコ8:5)ように、今も主は、御言葉となって私たちに問いかけています。イエス様が、私たちに向かって語られたこの質問の中にはどのような意味が含まれているのでしょうか?


1.世の限界性を知らせる質問です。
 
世の旅人である私たちの人生には限界があることを知るべきです。主の質問には人間の限界性を指摘すると同時に限界を知らせる意味が含まれています。制限された人間、数字にしばられ計算する人々に向かって、「あなたにパンが幾つあるのか?」と言う質問をすることによって、人間が自分のために持っている所有が微々たる物であることを悟らせようとしておられるのです。
たとえ自分が持っている財産が「何兆円」の価値があるとしても、神様は、「あなたにパンが幾つあるのか?」と質問するのです。人がどれほどの所有物があるとしても、イエス様にとっては、「いくつ」として数えることができる程度の価値である、ということです。

その質問に対して弟子達はどう答えたのでしょうか?「パン七つ又は五つしかありません。そして塩漬けした二匹の魚、少しの魚しかない」と制限された、数字に縛られ計算する思想のもとで答えています。
イエス様は、人間は如何に多くの富を持っているとしても限界があると言う事を悟らせようとしているのです。その限界の一つとして『時間の限界』があります。「三日」と言う時間の中におかれている人々を見てみましょう。「三日」と言う時間の中に「パンと魚」は全くの希望ではありません。なぜなら三日間の飢えた状態においては、七つのパンと少しの魚で、集まった男の大人だけで4千人(全体は約2万人くらい?)もの人々を食べさせることが出来ないからです。どうしたら荒野の中で、それも三日間の飢えを満たすパンを手に入れることが出来るでしょうか?

二つ目は『空間的な限界』があります。遠く離れたところで、広い野原で、そのパンと魚は実に微々たる物に過ぎません。どうしたら「七つのパンと少しの塩漬けした魚」だけのもので、広くて熱い荒野を乗り越えることが出来るでしょうか?
これが、無から有を創り出すことができるイエス様のそば近くにいた弟子達の考えかたでした。「これだけでは決して飢えた腹を満たす食糧にはならない」と言う考えが前提にたっていました。あまりにも限界性に縛られている姿を表しています。弟子達は、イエス様が群衆をあわれみ、心配するのを見ているのにもかかわらず、「荒野の中でどうやってパンを得ることが出来ますか?」「七つのパンと少しの魚を持ってどうやって食べさせることが出来ますか?」という思いで答えています。弟子達は「三日」と言う『時間』と「荒野」と言う『環境』のせいにしています。最初から「・・・だからパンを得る方法がない」と諦めているのです。これが大いなる神、全能なる神、創造者なる神の弟子達の限界でした。

2.イエス・キリストの可能性を示唆する質問です。
「パンがいくつあるのか?」と言う質問は、信じる人々にイエス様の可能性を教える御言葉でもあります。イエスは「パン七つと少しの魚をあなたの物だと思うな。私にもって来なさい」と言われています。ですから、私たちは、「あなたにパンがいくつあるのか?」と主から言われる時、心を込めて「主の手に渡します」と言うべきです。星の数を数え、髪の数も数えられる神様が、はたして弟子達が持っているパンの数を知らなくて聞いたのでしょうか?私たちが神の御心に従うためには、神様の御わざを示すためには、「幾つあります」と答えるのではなく「主の手に渡します」と言う思想と精神が必要です。
したがって「あなたにパンがいくつあるのか?」といわれる時、「幾つしかありません」と答える必要はありません。そのかわりに「イエス様、これがすべてです。主の手に渡します」と言うべきです。イエス様はもはや七つしかないことを分かっています。少しの魚しかないことをよく分かっています。イエス様はそれを見て人間の限界を知り、神様の慈しみを働かせて大きな奇跡を起こしてくださるのです。そしてイエス様は、手に渡された物を祝福し、感謝の心を持って、「分け与えなさい」と言われました。なぜならば貯めてもっていると腐ってカビが生えるからです。
さて、イエス様に言われた通りに、弟子たちが群衆に分け与える中で奇跡が起こりました。イエス様は与える者に「おし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくしてあなたがたのふところに入れてくれるであろう。」と言われました(ルカ6:38)。パン七つと少しの魚を人が持っていたらどうなったのでしょうか?そのままであったのか?かえって減ったか?決してそこに集まった群衆に食べさせるにはいたらなかったと思います。しかし、それがイエス様に渡された時、驚くほどの奇跡が起こりました。渡されたものはまさに微々たる物でした。決して満足できないものでした。ただ、ただ、がっかりするしかない微々たる物でした。しかしイエス様は何も言わずに、まず神の前で感謝の祈りを捧げられました。
人の命は、持っている所有の豊かさにあるのではありません(ルカ12:15)。少ないものを持って神様に感謝する時、そのまことの感謝が奇跡をもたらせたのです。愛する皆さん!主はいつくしみ深いお方です。主は私たちの志や生活などすべてを知っています。パンが幾つあって魚が幾つあるかをすべて知っているお方です。イエス様が知らなくて聞いたわけではないのです。
私たちは、主の前で真実に基づいて真心を持って告白すべきです。主の慈しみは時間と空間、すべてのものにまさって、溢れるほど満たしてくれます。したがって、「あなたにパンが幾つあるのか?」と言われたらパンだけを考えるのではなく、私たちが持っているものを主に渡す時に可能となり、満足となり、豊かな祝福を受けるという事を常に思い起こしましょう。
主は寡婦のレプタ二つを見て「大金持ちが捧げられたお金より寡婦の女が捧げられたものが多い」と言われました(マルコ12:41〜44)。パウロの生涯が神の前に捧げられた時、40名の人たちが殺そうとしても負けずに大胆に立ち向かったのです(使徒23:11〜16)。十字架上で悔い改めた強盗が自分をイエス様にゆだねたときパラダイスが約束されたのです(ルカ23:34〜43)。
結論:
環境のせいにしないでください。自足を学ぶべきです(气eモテ6:6)。感謝が大いなる奇跡をもたらせます。



日本ナザレン教団 赤坂教会



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