「しかし,このことは知っておかねばならない。終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者,大言壯語する者,高慢な者,神をそしる者,親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者,融和しない者,そしる者,無節制な者,粗暴な者,善を好まない者,裏切り者,乱暴者,高言をする者,神よりも快楽を愛する者,信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう.こうした人々を避けなさい.」
世の終わりが近づいてくれば来るほど人々は自分を愛するそうです。2テモテ3:1〜2節に、「しかし,このことは知っておかねばならない。終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は自分を愛する者,・・・(中略)となるであろう」と言われています。
古代ギリシャ神話の中に「ナルシス」と言う美しい少年が登場する物語りがあります。ある日、彼は井戸に映された自分の姿に惚れてしまいました。彼は井戸に映された自分の姿を見つめ、また見つめ、如何にも美しい自分の姿に惚れたあまりに井戸に落ちて死んでしまいました。後にそこには水仙花が咲いたそうです。このように自分を愛したゆえに惚れてしまった人、シンデレラコンプレクスや白馬の王子様のような思いをする人々をナルシストと言います。
今日私たちもこのような病にかかったままに暮らす時があります。ある時は自分が白馬に乗った王子のように素敵に見え、自分が誰よりも神様に対する信仰が優れているように思ったり、信じるなら私みたいに信じるべきなどと思います。勿論人には誰も他人より優れた長所があります。
私たちはその長所は神様から与えられた賜物であると思い、よく用いて啓発させる使命があります。しかし、その長所を用いすぎたり、誇りすぎたりする中で、自分も分からない内にその長所が美しく、愛しく見える時があると言う事です。これが間違うとナルシシズムに陥る結果を招くのです。
今日、私だけの誇るべき長所がありますか?
あるなら、それを与えられた神に真心を込めて感謝しつつ謙って生きて欲しいと思います。1コリント4:7節にて、「いったい,あなたを偉くしているのは,だれなのか.あなたの持っているもので,もらっていないものがあるか.もしもらっているなら,なぜもらっていないもののように
誇るのか.」と言われています。
ある1頭の鹿が池で水を飲んでいました。鹿は水を飲みながら水面に映された自分の角のかたちに惚れてしまいました。美しくて荘厳で奇妙な角のかたちが非常に美しく思いました。しかし、足を見て非常に失望したのです。それは、痩せこけた脚と飛び出た骨で、非常に見た目は悪かったからです。
しかし、ある日この鹿は獅子が自分に近づいて来るのを発見しました。鹿は生きるためにすべての力を尽くして走りました。走りに走って逃げました。遂に、丈夫な脚のお陰で安全なところまで逃げ切ることが出来ました。しかし、茂った森の中に入ろうとする内に木に角が引っかかりました。結局その角のために鹿は獅子に捕われて死んでしまいました。
このように私たちの長所が逆に短所となることもあります。私たちの短所が逆に長所となることもあります。ですから私たちは与えられた長所にいつも感謝しつつ謙り、私たちの短所に対して常に寛大に、そして感謝すべきです。
ダビデ王の息子、アブサロムは長い髪が誇りでした。長い髪が気に入っていたために切らずに伸ばしたのです。しかし、彼の長い髪は、結局彼を死に陥れる大きな原因になりました。アブサロムがダビデの兵士たちを避けてロバに乗って逃げた際、ロバが大きいかしの木の茂った枝の下を通るとき、アブサロムの頭がそのかしの木にかかって、ロバは彼を捨てて過ぎて行った。そこでヨアブは手に三筋の投げやりを取り,かしの木にかかっているアブサロムの心臟を突き通して殺しました(サムエル下18:9〜15)。
彼の誇りであった長い髪は結局、彼を死に陥れてしまったのです。私たちは自分の長所を度が過ぎるほど誇ることはやめましょう。これらのすべてのものは神様からただで恵みとして与えられたものであることを謙って告白しましょう。そして他人の短所を抱き、激励しましょう。その時、私たちの長所はより輝き、より大きな力として表れるでしょう。
結論:人は、自分の姿を愛したあまりに、自分の姿に惚れすぎたあまりに、それが高慢につながると同時に、自分に対する愛は自己破滅をもたらします。私たちのすべての長所と誇りがすべて主から与えられたものであることを認め、それらのものによって自分の良さが表れるのではなく神様の栄光が現れる生き方を取りますように、主の御名によって祝福いたします。
日本ナザレン教団 赤坂教会
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