2004,10,24

茨による痛みを持っていますか?

(第2コリント12:1-10,エゼキエル28:20-24)


「わたしは誇らざるを得ないので,無益ではあろうが,主のまぼろしと啓示とについて語ろう.わたしはキリストにあるひとりの人を知っている.この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが,からだのままであったか,わたしは知らない.からだを離れてであったか,それも知らない.神がご存じである.この人が――それが,からだのままであったか,からだを離れてであったか,わたしは知らない.神がご存じである――パラダイスに引き上げられ,そして口に言い表わせない,人間が語ってはならない言葉を聞いたのを,わたしは知っている.わたしはこういう人について誇ろう.しかし,わたし自身については,自分の弱さ以外には誇ることをすまい.もっとも,わたしが誇ろうとすれば,ほんとうの事を言うのだから,愚か者にはならないだろう.しかし,それはさし控えよう.わたしがすぐれた啓示を受けているので,わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人にかいかぶられるかも知れないから、そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使いなのである。このことについて、わたしは、彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしは、キリストのためならば、弱さと、屈辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである.」

「主の言葉がわたしに臨んだ,「人の子よ,あなたの顔をシドンに向け,これに向かって預言して,言え.主なる神はこう言われる,シドンよ,見よ,わたしはあなたの敵となる,わたしはあなたのうちで栄えをあらわす.わたしがシドンのうちにさばきをおこない,そのうちにわたしの聖なることをあらわす時,彼らはわたしが主であることを知る.わたしは疫病をこれに送り,そのちまたに流血を送る.その四方からこれに臨むつるぎによって殺される者がその中に倒れる時,彼らはわたしが主であることを知る.イスラエルの家には,もはや刺すいばらはなく,これを卑しめたその周囲の人々のうちには,苦しめるとげもなくなる.こうして彼らはわたしが主であることを知るようになる.」

 とげに刺されると、一瞬ドキッとするほどの痛さを感じます。栗を拾いに行ったことがありますか?イガの中の栗の実を取り出すのは容易なことではありません。少し手許が狂うと栗のイガに刺されます。栗のイガは、それほど丈夫ではありませんが、刺されると痛いし、もしとげが体の一部分に刺ささったまま残ってしまうと、取り出すのも容易ではありません。このような小さなとげに刺されても痛いのに、より大きな茨に刺されたら、どんなに痛いでしょうか?

 人生を歩む中で私たちは多くの茨に刺され、その痛みを味わいながら暮らしています。とげに刺された経験のない人はいないでしょうし、またとげを持ってない人もいないでしょう。そのとげの大小にかかわらず、人々は誰しもとげをもっています。ある人は体の病のとげ、ある人には人間関係のとげ、ある人には経済的なとげ、ある人には家族の悩みのとげ、ある人には聖書に対する信仰的なとげなどがあって、それぞれとげによる痛みの体験を持っています。しかし、神様がもたらせるとげは、神から離れさせるために与えられるとげではなく、神に対する成熟された信仰へと導くために与えられるとげであるので、私たちは信仰によって十分に勝つことが出来ます。したがって「肉のとげは恵みのとげであり、霊的な成長をもたらせる変化を催促する霊のむちである」と聖書は教えています。

「弟子たちを力づけ,信仰を持ちつづけるようにと奨励し,「わたしたちが神の国にはいるのには,多くの苦難を経なければならない」と語った.」 
 − 使徒14:22−

「しかし,最後まで耐え忍ぶ者は 救われる.」  − マタイ24:13−

聖書に登場する多くの偉大なる信仰の人々も、それぞれ与えられたとげがありました。

ペテロには鶏の鳴き声のとげがありました(マタイ26:19,69〜75)、モーセには荒野での磐を二度打つ過ちのとげがあり、(民数記20:1〜13,27:14〜,申命記1:37、3:26,32:51)、エリヤには弱さと言うとげ(列王上19:)、サムエルには子供と言うとげ(サムエル上8:2〜3)、使徒パウロも目の病気というとげがありました。そのせいでパウロは大きな文字で書かなければならなかった、と聖書は語っています。

「ごらんなさい.わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字であなたがたに書いていることを」(ガラテヤ6:11)。

彼はこのとげによって耐えられないほどの苦痛を覚えていたので、このとげをなくしてほしいと三度も祈りました。第2コリント12:7−8節に、使徒パウロに与えられたとげはパウロを打つサタンの使いであると語っています。

そこで,高慢にならないように,わたしの肉体に一つのとげが与えられた.それは,高慢にならないように,わたしを打つサタンの使なのである.このことについて,わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと,三度も主に祈った。」

 もし、今日、私の人生において痛みをおぼえるとげがあるのなら、主に真実の祈りをなすべきです。イエス様は頭に茨の冠をかぶらされました(ヨハネ19:2)。当時のとげは厚さが手の指より太いものであったと言われています。ローマ兵士たちは、イエス様の痛みを可哀想に思って、そっとかぶせたのではなく、思いきり力を込めて上から下へと茨の冠をかぶせたはずです。その瞬間のイエス様が受けた苦しみはどれほど大きかったのか、言葉ではいいがたいほどです。

1.肉体のとげは罪を止まらせるためであると語っています。

主が茨の冠をかぶらねばならなかったのは、私たちのすべてのとげを代わりに受け持ってくださったことを意味します。イザヤ53:5節で、「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ,われわれの不義のために叩かれたのだ。」続けて「彼はみずから懲らしめをうけて,われわれに平安を与え,その打たれた傷によって,われわれはいやされたのだ。」と記されています。

主が私たちのとげを代わりに受けて下さった故に、私たちは、父なる神様に祈り、委ねることによって必ず、神様は私たちのとげを癒して下さるのです。私たちは、現在のとげによって痛みを覚えていることだけを嘆き、叫ぶのではなく、すべてのとげを癒してくださる父なる神様に真実に祈り、委ねる信仰を持ちましょう。

2.とげは人を謙遜な者にします(第2コリント12:7)。

使徒パウロは、とげから完全に解放されることはありませんでしたが、とげのために祈った後、そのとげの故に、さらに主に委ねるようになり、その結果キリストの力が留まることによって弱さを通してより強い信仰者となりました。第2コリント12:9節に、「ところが,主が言われた。わたしの惠みはあなたに對して十分である.わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。それだから,キリストの力がわたしに宿るように,むしろ,喜んで自分の弱さを誇ろう.」と言われています。したがって「とげ」は人を謙遜な者に創り変えるのです(第2コリント12:7)。

第2コリント12:10節には、「わたしはキリストのためならば,弱さと,侮辱と,危機と,迫害と,行き詰まりとに甘んじよう.なぜなら,わたしが弱い時にこそ,わたしは強いからである。」と語っています。栗のイガが如何に痛みを与えるとしても、革の手袋を使い栗のとげに触れるなら何の問題もないでしょう。そして、栗のイガも中の実も、自由自在に操ることが出来ます。祈りは、このように、とげが刺すことのできない革の手袋のようなものです。如何にとげが強くても革の手袋を使う手には何の刺傷もきたしません。それと同じように、私たちの人生にとって、如何に大きなとげの苦難があろうとも、祈る人の手の前には何の妨げにもならないのです。

3.とげは神の栄光をあらわします(第2コリント12:9〜10)。

雅歌2:2節に、「おとめたちのうちにわが 愛する者のあるのは, いばらの 中にゆりの 花があるようだ.」と記されています。ゆりの花は、茨のなかにあっても茨をすり抜けて成長します。そして茨に刺されながら、かえってその刺されたことによってかぐわしい香りを放ちます。私たちも、今日このユリの花のように、祈りによって人生の茨に勝ち、勝利をおさめてイエス.キリストの香りを放つ霊のゆりの花になりますように。

『イエスは答えられた,「本人が罪を犯したのでもなく,また,その両親が犯したのでもない.ただ神のみわざが,彼の上に現れるためである.」』  
−ヨハネ9:3−

「あなたがたをキリストにある永遠の榮光に招き入れて下さった神は,しばらくの苦しみの後,あなたがたをいやし,強め,力づけ,不動のものとして下さるであろう。」−1ペテ5:10−

結論:時に人は、とげを自ら作りあげることがあります

 箴言15:19節に、
「なまけ者の道には,いばらがはえしげり,正しい者の道は平らかである.」と記されています。ここで「平らかな道」とは英語では「ハイウェイ」で、高速道路を意味します。正しい者には、高速道路のように栄える道が開かれます。しかし、怠け者は自ら茨が生え茂る道をつくるのと同様であるということです。もし、自分の進む道が茨の生え茂った道であるなら、どんなに痛くて苦しい歩みでしょうか?ですから、皆さまは、怠け者として茨の道、困難な道を歩むことなく、正直で正しい者として、平らかな道、幸いな人生を過ごして下さい。

もし今日、自分の怠けによって茨の中のような苦しみを受けているとするならば、これからは、怠惰な生活を清算し、神の前で常に勤勉で正直な者として生きてくださるようにお願いします。「祈りと正直」これこそが私たちの目の前にある茨を取り除く偉大な力なのです。




日本ナザレン教団 赤坂教会



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