2004,11,21

神が喜ぶ実は私にあるのか?
第2ペテロ1:8〜9


序論:今日は、収穫感謝祭です。皆さんはこの日を覚え、先週からそれぞれが祈りつつ備えてきたことでしょう。また、それ以上に2004年をこの収穫感謝の日に向けて歩んで来たことと思います。

聖書を見ると、多くの捧げるべき礼拝について記されていますが、収穫感謝祭(礼拝)は他の祭りとは異なる性格を持っています。

収穫感謝祭(礼拝)は、多くの実を収穫する喜びの日であると同時に恐ろしい日でもあります。一年の収穫の場は、すなわち裁きの場でもあることを聖書は示しています。
農夫は、一年の収穫を望み、端正込めて畑を整え、種を蒔き、肥料をやり、水を与え、全てを尽くして働きます。しかし、天候が守られること、天災が起こらないように、働く者の健康が守られるように、というのが更に重要な関心事ではないでようか?たとえ、最善を尽くしたとしても、収穫できる迄の過程、すなわち『収穫が与えられる為の条件』が備えられる事が最も重要なのです。

神様は、私たちにも収穫できる多くの条件を与えて下さっています。その良い条件をどのように用いて収穫を得たのかを清算されます。聖書における他の祭りは、神様の力強い御わざを示し、多くの恵みのわざが含まれていますが、この収穫感謝祭だけは私たちの労苦の結果が問われます。神様から多くの収穫の為の条件を与えられて、如何にこの一年、汗を流し、労苦と真心を持って行い、どれほどの量の血と汗を流してきたのかを測られるのが、この収穫感謝祭です。  
収穫感謝礼拝だからと言って、袋にお金を入れて誠意を払えばいいと考えるのは大きな間違いです。収穫の実のない人がどうやって感謝が出来るのでしょうか?私たちは収穫感謝祭を厳粛に迎えると同時に、その感謝が持つ意味を深く考えるべきです。

 信仰生活と言うのは実を結ぶ生活であると言えます。実とは何でしょうか?実とは信仰生活の結実としての比喩的な表現です。
もし、万が一信仰の生活に実がなければ結局は神の国を奪われてしまう、とマタイ21:43節は語っています。
「それだから,あなたがたに言うが,神の国はあなたがたから取り上げられて,御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう.」
聖徒は、実のない葉っぱだけ茂った無花果(いちじく)の木のような信仰生活をしてはいけません。では信仰生活に実が結ばない理由は何でしょうか?

1.信仰生活に怠慢であるからです。

 第2ペテロ1:8節に、「これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、實を結ばない者となることはないであろう。」と記されているように、実のない最も重要な理由は、信仰生活の怠慢です。もし農夫が、時に合わせた努力もせず、労苦を果たさなければ、確かに収穫は得られないでしょう。たとえ多少なりとも得たとしても不十分な実を得るだけでしょう。

同じように信仰生活も霊の農業であるとするならば、信仰の実を結ぶためには決して怠ってはいけないのです。
 ローマ12:11節を見ると、
「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、」と言われています。聖書的意味から見ると「熱心」には「燃え上がるような猜忌の念」という意味が含まれています。ですから相手を燃やすほどの熱さがあるべきです。そのような熱心と努力によってのみ信仰の実を結ぶことが出来ます。

2.近視の 者であるからです。

第2ペテロ1:9節に「これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の 罪がきよめられたことを忘れている者である。」と述べています。ここで 「近視の者である」と言うのは遠くを見ることが出来ないと言う意味で、物事に対して信仰の目で見ることができない、または霊的に見ることができないでいつも肉的に考える人のことを意味します。
近視の者がなぜ実を結ぶことが出来ないのでしょう。常に全てのことを肉的に見て、考えたりするので苦しみや試練が来ると悩んだり、心配したりを繰返します。遠くを見ること、つまり無から有を生じさせる神様を信じる信仰=霊的視野がないために、身の回りに起こる苦しみや困難に立ち向かえることが出来ず、負けて倒れてしまい、結果として実を結ぶことが出来なくなるのです。

 創世記13:14節に、ロトと分かれたアブラハムに現れた神様は「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。」と言われました。遠くを見なさいと言われたのです。当時アブラハムは牧草地のために起こった争いで自ら譲ることによって賢く解決しましたが、すぐ飲む水や家畜に食べさせる牧草地が少なくなったために心配せざるにはいけない状況でありました。状況だけを見るならば心配するのが当然と思われるアブラハムに対して、神様は遠くを見るようにと言われたのです。
このように遠くを見渡し、ゆとりある心で信仰生活をする時、揺れ動かない信仰を持つことが出来、根を深く下ろすことによって実を結ぶことができるのです。信仰生活は短距離競走ではなく、長距離マラソン競走のようなものです。如何なる困難があっても勝利をするためには遠くを見渡すことの出来る霊的視野が必要です。このような霊的な眼を持つことによって、実を結ぶ信仰生活が出来るのです。

3.きよめられた恵みを忘れているからです。

 また、続いて「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている」と書かれています。きよめられた恵み、すなわち贖いの恵みを忘れた故に、実を結ぶ生活を送ることが出来ないのです。恵みを忘れる生活は感謝のない生活であり、再び古い生活を繰り返すことになってしまいます。
 果物も実を結ぶためには熟成の期間が必要です。もし、幹から外れたなら、成熟の活動も止まってしまいます。恵みを忘れて感謝のない信仰生活は、成長と発展がないから実がないのです。常に与えられる神様の恵みに感謝する人だけが実を結ぶ生活が出来ます。このように私たちが実を結ぶ生活をするためにも感謝を止める生活をしてはなりません。 第1テサロニケ5:18節には
「全てのことに感謝しなさい」と言われています。信仰の目で見れば感謝できない条件はありません。感謝する聖徒になって神様が喜ぶ実を結びましょう。

結論:信仰生活において結ぶべき実は多いです。義の実、悔い改めの実、聖霊の実、御言葉の実、祈りの実、伝道の実などなど私たちが結ぶべき多くの実が待っています。信仰生活に熱心を果たして、遠くを見渡す信仰で、常に神の恵みに感謝する心で実を結ぶ聖徒になりますようお願いします。



日本ナザレン教団 赤坂教会



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