序論:イスラエルの人々がエジプトを出て荒野の道を進む時、神様はマナという食べ物を与え、旅路の全行程において彼らを養われました。マナが初めて彼らに与えられたのは、紅海を渡りシンの荒野に着いた時でした(出16:1,13〜15)。そしてイスラエルの人々がギルガルに宿営を張り、過越しの翌日にその地の産物を食べるまでの40年間降り続きました(ヨシュア5:10〜12)。イスラエルの人々はマナを集めてひきうすに入れてひき、また、うすでつき,かまで煮て、これをもちにして食べました。その味は蜜を入れたせんべいのようでした(出16:31)。イスラエルの人々が食べたこのマナは永遠の命のパンであるイエス・キリストを意味します(ヨハネ6:31〜35)。うすにひかれ、うすで粉々にちぎられたマナはキリストの苦難を表しています。
1.マナはイエス・キリストの苦難を見せてくれます。
イスラエルの人々は荒野でマナを食べて死にました。しかし、「天から降った生きたパンとして食べる者は決して死ぬことがなく、永遠に生きる」と生きたパンであるイエス様がはっきりと言われました(ヨハネ6:49〜50)。イエス様は砕かれていないマナの塊である御言葉を与えられましたが、霊的に成熟していない、耳で聞くことも出来ず、目で見ることもできないイスラエルの人々は「これはヨセフの子ではないか」と、イエス様を信じることができませんでした(ルカ4:22、ヨハネ3:12)。
結果イエス様は人類の贖い主としての使命を果たすためにうすに入り、壊れて、砕かれて、粉々にならざるを得ませんでした。旧約のマナはこのように、イエスの受難のしるしが示されているのです。イエス様が犠牲の生贄となり砕かれ粉々にされたことによって私たちは今、永遠のマナを食べる恵みを得ています。
生命の救い主であるイエス様がうすの中に入れられました。「うす」による苦しみはイエス様が全人類の身替わりに受けた数え切れない肉体的精神的な苦しみです。
その苦しみに加え、さらにひざ、手、足の節々が砕かれ、肉がちぎれる痛みと苦しみに遇われました。そのような苦しみの中でも「これが父の御旨である」と感謝の祈りをささげられました。イエス様は裸にされて恥を受けました。赤い外套を着せられからかわれ、茨の冠をかぶせられ、さらに葦の棒を右の手に持たされました。犬にも劣る扱いを受け、人格を踏みにじられ、人間性を完全に否定されました。これはまさに永遠の命と父なる神の思い、そして御旨が完全に無視され、人類の罪を贖う尊い血が人類によって否定され、真理の御言葉が無視された瞬間でした。
彼らは苦難のうすの中にイエスを入れて粉々に砕きつぶしたのみならず創造主なる神の存在価値を完全に踏みにじりました。また、葦の棒でその頭をたたき、顔につばをかけ、人間以下の扱いをしています(マルコ15:19)。背中にむちを与え、ひげを引っ張り、頬を殴りました。
うすの中に入れられ砕かれたマナのように、イエス様の御苦しみが、すべて私たちの購いの故であるならば、私たちは主の為に何をして差し上げることができるでしょうか?感謝の心を持って、イエス様の為に生きようと努めるのは当然ではないでしょうか?。聖歌の157に『わたしはあなたのためにうすの中に入れられ砕かれ、ちぎられたが、あなたはわたしのために何をしてくれるか?』と歌われているのを想起してみましょう。
2.聖徒らが受ける苦難を見せてくれます。
また、マナがうすの中に入ることは救われた聖徒らが受ける苦難をも意味します。
使徒パウロはイエスの死を常に自分の身に負って生涯を過ごしました。これはキリストの命が自分の中に現れるためであると言われています(第2コリント4:10〜11)。愛する聖徒の皆様!わたしたちが神の国に入るためには多くの艱難を受けなければなりません(使徒14:22)。聖書にこうあります「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるため」(第一ペテロ4:14)。
「艱難」の語源を調べると「重い物体を落として、ある形を全て砕き飛び散らせること」という意味が含まれています。イエスの御名のために、教会のために、全く人格が否定され、自分の存在価値がなくなるほどに無視されるような状態を「艱難」と言います。
皆さんは、イエス様の御名の為に艱難を受けたことがありますか?
使徒パウロはイエスを証したために石で打たれました。人々は死んだと思い、町の外に引きずり出しました(使徒14:19〜20)。イエスの弟子たちもイエスと共に砕かれ、艱難に遭いました。
聖書には記されていませんが、歴史書に残されている記録を紐解いてみると・・・
ヤコブはヘロデによって主後44年にエルサレムで剣によって殺されました(使徒121〜2)。
ピリポは小アジアで福音を伝えたために打たれて十字架を負い殉教の道を歩みました。
ペテロは主後64年にローマでむち打たれ、十字架に逆さまに掛けられて死にました。
トマスはインドで福音を伝えた為槍に刺されて悲惨な形で殺されました。
バルトロマイはインドで酷いむちを受けた後十字架に掛かって殉教しました。
タダイは (小ヤコブの弟)エデッサ(Edessa)で十字架刑により殉教しました。
小ヤコブは94歳の時、石に打たれ、むちに打たれ、剣に刺されて殉教しました。
熱心党の(カナン人)シモンはアフリカのモリタニで惨い殉教をしました。
イエスの弟子は皆このように「苦しみのうす」に入り殉教しました。
結び:初めに来られたイエス様は私たちの「いのちのマナ」です。イスラエルの人々は知らないでマナをうすに入れてひいた為に、再びマナを食べることが出来ませんでした。イエスの「残された受難」を私たちが満たさなければなりません。命の御わざがあるところには必ず「苦難」という「うす」の痛みがあります。
しかし、御言葉はどうありますか?「艱難や迫害、危険や剣も、何ものをも私たちをキリストの愛から離れさせることは出来ません」(ローマ8:35〜39)。
日本ナザレン教団 赤坂教会
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