振り返って見ればさまざまな大型事故によって綴られた一年でありましたが、月日と共に葬って迎えた新しい一年が私たちと教会に望に満ちた恵みあふれる平安な一年でありたいと願う心で一杯です。希望は生きる人々になくてはならない勇気をもたらせる大きな力です。如何なる困難の中からも希望があれば挫折することはないからです。?コリ9:10節には、「耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。」と言う御言葉が記されています。
勉強する学生たちはその勉強を通して将来性のある良い学校に入り、将来を約束してもらいたいから夜を通しながらも熱心に勉強するわけです。子供を育つ親はその子供たちが将来立派な人になるという希望があるから子供のために苦しみを却って楽しみに思うのです。
では私たちクリスチャンがここに週ことに集まって礼拝をするのは神様が私たちの歩みをより豊かに満たしてくれるという希望を持っているからです。「わたしの命は息にすぎないし、望みの絶えた者の語ることは風のようなものだ。」と言われているように(呼ぶ7:7、6:26)、私たち弱い人生にもこの一年「主よ、わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。」(詩篇39:7)と言う告白があるべきではないかと思われます。まさに神は私たちの望みであり、頼みであることを詩篇の著者は告白しています(詩篇71:5)。
過ぎ去った一年の間、私たちが歩み続けてきた中で一つも希望に満たされた生活を経験して見なかったと言っても決して度が過ぎる表現ではないでしょう。しかし、私たちの信仰と望みを神にかかっているようにされたので(?ペテロ1:21)、日々望みを抱いてより神を賛美すべきではないでしょうか?(詩篇71:14)。この乱れて複雑な時代の中で私たちが求めるべき望みに対して今日の本文は、「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」と言う御言葉を用いて求めるべき望みは神様にあると言われています。
聖書は神様に対するさまざまな呼称を使っています。全能の神、創造の神、愛の神、公義の神、恵みの神、慈悲の神、慰めの神、怒りの神、裁きの神などそのほかにも数多くの呼称を神様につけて使っています。しかし、その多くの呼称の中でも新しく与えられた一年を歩み出した私たちに最も適切な呼称は「望みの神」です。乱れた世の波の中で苦労する私たちに「望みの神」と言う聖呼が最も親しく感じられる呼称ではないかと思われます。
詩篇146:5節にも、「ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人はさいわいである。」と記されています。詩篇39:6〜7節にも、「まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを收めるかを知りません。主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。」と告白する詩人を見ることが出来ます。
望みの神!今年こそ望みの神を迎え入れて歩むべきです。旅路を歩む旅人のような私たちにとって唯一の望みは神様です。旅人はいつも不安な存在です。何時、何処で、何に出会えるか分からないのが旅人の生活です。ですからペテロはその時代のクリスチャンに対して、「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」と言われています(?ペテロ2:11)。
私たちは旅人です。「あなたの年はいくつか。」と聞くパロの前で、「わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません。」(創世記47:9)と告白しています。
父を騙し、兄の相続を奪い取ったことによって家を出て野原で眠っているヤコブに望みの神は表れてヤコブの将来に対する約束と望みを与えられました(創世記28:10〜22)。
ヨブは酷い苦難を受けながらも、「彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出て来るであろう。」と告白しています(ヨブ23:10)。彼はわたしの行く道を神様が知っていると告白しています。如何に疲れてだるい旅路を行くとも神を頼みとして歩む信仰の人が行く道には望みが絶えないのです。
オクスポード運動のリーダのひとりであったジョン・ヘンリ・ニューマン(JOHN HENRY NEWMAN1801〜1890)牧師は1883年32歳の若いとき、イタリアからのイギリスに帰りのフナ切符を求められずにいらだていたが、マルセイユと言うフランスの商船を乗って地中海を航海することになりました。その船はイタリアからイギリスにオレンジを運ぶ帆船だったのです。その船がコシカ島とサディニア島との間にあるボニプシオ海峡で風が止んだために動くことが出来ませんでした。1833年6月6日午後でした。暑い太陽の日差しの下で風もない静まった海にと止まった帆船は熱くなるだけでした。ニューマンと彼の友人は不安に陥りました。
しかし、船長はニューマン牧師に「わたしがあなたよりもっと苦しいよ!この船には数百ケースのオレンジが載せられてあるからもしもこの太陽の日差しから逃れないならこのオレンジは全てためになるよ。私たちはただ神様が風を与えてくれると一歩進み、風を止めればそこに止まるしかないでしょう。」だから「風を起こしてくれるよう神様に祈りなさい!」と言う船長の言葉は牧師の言葉よりもっと信仰的でありました。彼らは一斉にひれ伏して神様に祈りました。夜になり真っ暗闇の空に一つの星が輝き始めました。そして風が吹き始めました。すると船長はあの星を見て航海を続けました。その時ニューマンの心の中に一つの詩が思いつきました。
「たえなる みちしるべの ひかりよ いえじも さだかならぬ やみよに
さびしくさすらう身を みちびきゆかせたまえ」賛美歌288(韓429)番はニューマンの体験を綴った歌です。
神は旅路を行く全ての人々に望みをもたらす神であり、苦しみにある人に希望をもたらせる神です。苦しみは全ての人々に来る避けられない課題ですからヨブは、「人が生れて必ず悩みを受ける、火の子(火花)が上に飛ぶにひとしい。」(ヨブ5:7)と告白しています。アダムの子孫として生まれた人生は苦しみに出会って歩みます。モーセは詩篇90:10節の御言葉を通して、「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと惱みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」と告白しました。しかし私たちはこの苦難と逆境を通して神を知るようになります(詩篇119:71,75,67、エレミヤ31:18〜19、ヘブル12:5〜11)。苦しみは何処にもあります。
「うきよのたびゆくみは まくらすべきいえなく うきとおそれ たえずあれど あまこそわが故郷」賛美歌475(韓290)番の歌詞が言われているようにどうしても苦難道を避けられない人生であるならば、苦難の中にいる人々に常に望みを与えられる神様に私たちは望みをかけるべきです(詩篇107:28〜30、?ペテ1:3〜4、23、テトス2:13・祝福に満ちた望み、テトス1:2、3:7・永遠の命の望み)。ヤコブ5:3節には、「あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。」と言われました。
私たちは生きながら思いもしなかった苦痛を受けるときが多いです。水害によって全ての財産を失う場合もあれば、火災によって人名と財産に莫大な損失を受けるときもあります。経済の破たんによって全ての家産が破壊される場合もあり、願ってもない病で命の脅威を受けるときもあります。しかし、この全ての場合にも神様を真の頼みとして歩む聖徒には必ず避け道を与える神様です。それだけではなく神様は罪による絶望におかれている最も悲惨な人生にも偉大なる望みを与えられる神様です。
ダビデのようなすばらしい信仰の持ち主も罪の誘惑にはころりと参って崩れましたが、彼が泣きながら悔い改めたとき神様はダビデをゆるし、聖なる王の位を守らせたのです。彼はナダンの叱責を受けたときに自分の罪に言い訳をしないで(サム下12:)、「わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。」と素直に告白しました。これはダビデが罪びとにも望みを与えられる神様であることを知っていたからです。
姦淫の現場で捕らわれて来た女にもキリストは彼女の罪をゆるし、新しい望みを与えられたことをヨハネ8章は記録しています。
生涯を殺人と強盗の行脚(あんぎゃ)を繰り返していた罪びとも「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。」と求めた時、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一_にパラダイスにいるであろう。」とイエス様は彼に言われました(ルカ23:39〜43)。
如何に恐ろしくて大きな罪を犯した罪びとであっても神様の愛に絶望はありません。どうせ私たちのこのからだは永遠に続くことは出来ません。私たちにはこの一年が終わりになるか、また新しい一年を迎え入れるかはそれを知る者は私たちの中で誰も居ません。私たちはこの一年が自分にとっては最後の生涯であると思いながら、わたしを愛し、わたしを救い、わたしの捧げる礼拝を喜んで受け入れる望みの神の前で忠実で善き働き人として歩むことを定めるときとなりますようにお願いいたします。
「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」
この御言葉がこの一年を歩みだした皆さんの歩みの勇気と力となりますよう主の御名によって祝福いたします
日本ナザレン教団 赤坂教会
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