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嵐の夜に
苦しみは人に話しても本当にはわかってもらえないものです。むしろ、的はずれな同情や励ましは傷口に塩をすりこむようで、かえって新たな苦しみの原因となることもあります。
「神さまが本当にいるのなら、どうしてこのようなことを許していられるのでしょうか?神さまには何でもできるはずでしょう!私を助けてくれないのはなぜですか?」 牧師であるわたしは、何度もこのような叫びを聞いてきました。
苦しみの意味を説き明かすことは、神以外のだれにもできません。けれども、聖書はいくつかのことを、確かなこととして教えています。
第一に、神ご自身も苦しみを味わっておられるということ。神が苦しむ、とは不思議です。全能の神が苦しむなどということは考えられないように思えます。もちろん、神は苦しみをお避けになることができます。もし、ご自分がそうお望みになるのであれば。しかし、実際には神は、苦しみを避けることよりはむしろ背負うことをお選びになる神です。神は、イエス・キリストを十字架につけました。イエスが神の子であるということを、これをお読みになっているあなたが受け入れておられるかどうかはわかりませんが、十字架が神がお払いになった犠牲であることは明らかでしょう。犠牲をはらうことを選ぶ神。犠牲にともなう苦痛を選ぶ神。その神は私たちの苦痛に無関心でもなければ、むとんちゃくでもありません。
第二に、神はこの世界を支えるためにあなたを必要としておられます。神が人間を必要とするとはこれも不思議なことに思えます。けれども、例えば、あなたの苦しみの原因が、あなたの家族の弱さや問題にあるなら、神はあなたをそのためにそこに置いておられるのではないでしょうか?神は、あなたを信頼して、あなたを通して、あなたの家族に恵みを注いでくださっているのではないでしょうか?
今を、嵐の夜だと感じておられるあなたに。あなたとともに苦しみ、あなたにはそう思えなくても、恵み注いであなたを支える神がおられることを知ってください。あなたは一人ではないのです。
そして、嵐の夜がいつまでも続くことはありません。やがて世が明け、静かな朝がやってきます。
「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」 コリント人への手紙第二4章17節
升崎外彦伝(明治25年・1892〜昭和51年・1975)
「本願寺の米びつ」と呼ばれた金沢に生まれる。父は西南の役に官軍の将として功あった升崎茂郷、「念仏郡長」の異名をとった篤信 の仏教徒。道場「真武館」を主催する剣道六段。六尺を超える偉丈夫であったという。従五位勲四等。母は浄土真宗の名刹大源寺の一人娘環女。母胎を案じて中絶をすすめる医師を斥け「この子は仏様からの授かり児です。大源寺の跡取りにしてください」と遺言して出産3日後に逝去。
母の遺言により外彦は6歳で寺に入り、7歳で読経を始め、10歳で得度。しかし、14歳のころから「人生とは何か?」と悩む。寺院生活の空虚、伽藍宗教の腐敗、安心立命を得られぬ教理などに煩悶し、夜も寝ず「南無阿弥陀仏」を唱え、哲学に走り、あらゆる宗教書をむさぼり、真宗・臨済宗・曹洞宗などの名僧に教えを請うが道を得られず、金光教・天理教・御嶽教・みそぎ教など父から厳に禁じられていたキリスト教以外のありとあらゆる宗教を転々とする。ついに、絶望して自殺を測ること六度。そのたびに故障が入り七度めに周到に準備して金岩海岸に向かう途中、救世軍の路傍伝道に鉢合わせした。一目散に駆け抜けようとしたはずみに電柱に頭をぶつけ、よろめき倒れたその刹那、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」の聖書の言葉が耳に飛び込み、思わずそこにいた救世軍士官に「僕は疲れ切っています。背負いきれない重荷で押しつぶされそうです。」と訴えた。士官は単刀直入、「この方以外には、だれによっても救いはありません」とイエス・キリストの十字架の福音を指し示し、外彦は「おお主イエスよ、わたしは信じます。あなたこそ真の阿弥陀仏、生ける如来様です」と叫んで救われた。ときに外彦、16歳。
外彦のヤソ転向は東本願寺派の大問題となり、「下げ渡し」すなわち、僧籍剥奪・寺門追放となる。父は苦しみ、真武館で兄弟子たちと共に折檻、絶息してもなお打ち叩いて改心を迫った。しかし外彦はすきを見て教会に走り金沢教会で受洗、帰って臆せず父に報告した。父は前藩主より拝領の銘刀志津三郎を抜いて斬りかかり、裸にした外彦を氷上に投げ飛ばした。背に生涯消えぬ裂傷を負った外彦は雪を鮮血に染めつつ正座していたが、やがていとまを乞い、家を出た。
外彦は小松市で伝道した後、救世軍士官学校を卒業、仙台小隊に赴任。ここで悪漢にさらわれた少女をかくまったことからならず者150名によって、棍棒・仕込み杖などによる暴行を受けた。ついに手ぬぐいに包んで振り回した煉瓦を後頭部に受け昏倒、余命2ヶ月の診断を受けた。不思議にも84歳まで生きたが生涯後遺症に苦しむことになった。(助けられた少女は故郷岡崎市で家庭を持ち、三人の子女をもうけた。)
余命の短いことを告げられた外彦は最も伝道困難な地を死に場所にと考え、出雲に行く。迫害を受け村には住めず、住んだ場所は山中の洞穴。これが後にまむしの巣とわかるがあやうく難はまぬがれたが、石打ちや断崖から投げ落とされるなど何度も生死の境をさまよう。迫害の首謀者は郡会議員であったが、この人がこのころコレラにかかって死ぬが、だれも恐れて火葬にする者がいない。外彦がこれを引き受けたところ、遺族は胸を打たれ、一家でキリスト教に入信した。これらのことがきっかけになり外彦は地域に受け入れられるようになった。彼は村人の共同作業を奨励し、農村副業を教え、信愛産業組合、禁酒会などを起こした。また、後援者の協力を得て幼稚園、実科女学校、病院を設立。立派な教会を中心に、村は富み、ある新聞はスコットランドの宗教村のようと評したという。救世軍から転任の辞令が発令されたときには、郡長と3ヶ村長が連名で救世軍指令官に留任を求めたが認められなかった。
外彦出雲在任中に、外彦の父は我が子を邪教から取り戻そうとキリスト教の弱点を探すことにした。聖書を考え考え読み、最初の4章を読むのに3年かかったが、ついに新旧66巻の聖書を何度も読み返し、また救世軍司令官山室軍平の名著「平民の福音」をぼろぼろになるまで読んだ。父が驚き怪しんだのはイエス・キリストの人格であった。「人にして神、神にして人なるキリスト、我が日夜尊崇しまつる親鸞上人とは比較にならぬ、是は一介の僧侶、彼キリストは正に神の独り子」と悟った。父は「キリスト神ならば御姿を現したまえ」と父は21日の間、食を断ち、臥竜山鶯滝に水垢離を試みた。時は2月、父65歳。21日めに滝から上がって岩の上に座し、掌を合わせて念じていると、白衣のキリストが彷彿として現れた。父は外彦を招いて詫び、和解した。71歳で召される際には、枕頭にはべる外彦に「外彦、外彦、出雲へ帰れ。ヤソのために働いて死ね」と叫んだ。辞世に「荒野なる浮き世の旅も今過ぎて 父の御許に行くぞ嬉しき」。
農村伝道に使命をもつ外彦はやがて救世軍も去り、盟友賀川豊彦の依頼により昭和2年、紀州南部に赴いた。ここで労祷学園を設立、漁村民と共に生活をして社会教育と伝道活動を行った。昭和43年に外彦が、翌年夫人が夫婦では珍しく瑞宝章を受章。ここでも逸話に事欠かない外彦であるが、そのうちのいくつかを。
<忠一物語>
外彦があるとき連れ帰った孤児、山本忠一には知的障害があったた。これを苦にした7人の在学生が忠一の退園を要求したが外彦は聞かず、結果、在学生全員が去った。忠一も行方知れずになったが、数年後の昭和14年、乗り組み員になっていた機帆船幸十丸が暗礁に船底をぶつけ沈没の危機にさらされた。忠一は自分の太股を船底の穴に突っ込んで浸水を食い止める間に、船を陸に寄せさせ全員を救ったが、自身は太股をもぎとられ失血死した。実は、外彦はいつも忠一にオランダの堤防を救った少年ハンスに話して聞かせていた。忠一はこの話に感動して日ごろから「俺はハンスだ」と言っていたと言う。聖書に「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とある。キリストはすべての人のために命を捨ててくださった。外彦が忠一に伝えたものはこの愛であった。
<ある軍曹の物語>
昭和18年1月、外彦がいつものように浜辺で望遠鏡で星を眺めていたところ、敵機に暗号を送っているという疑いをかけられ、和歌山県憲兵司令部に出頭を命じられた。担当の軍曹は取り調べもしないで、いきなり殴る蹴る踏む打つの暴行。外彦は昏倒し意識不明のまま家族の手に引き渡された。堺の名医、磯野巌博士の尽力によりまたも奇跡的に回復した外彦は、終戦後まもなく和歌山県警察本部の依頼で各警察署に「民主主義の根本思想」を説いて回る。ところがある警察署で刑事の尋問を受けているこの元軍曹に再会した。憲兵くずれでどうしようもないと評されていたこの元軍曹は外彦の顔を見て泣き出し、外彦の心にキリストの愛はあふれた。外彦は彼の身柄引受人、法廷での特別弁護人となり、執行猶予の評決後は仲人の労をとって結婚式を司式した。元軍曹は小売商をいとなみつつ平和な家庭を築いた。
「荒野に水は湧く」 増補版 田中芳三著 より