【次週の礼拝 6月26日)】
聖書 コリントの信徒への手紙2
6章3〜10節
説教 「死んでいるようで 生きている」
加藤幹夫牧師
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定 期 集 会
<聖 日 礼 拝>
日曜日
午前10時15分〜午前11時30分
<聖書の学び・祈り会>
朝の部 水曜日 10:15
<教会学校>
(子供の礼拝と分級)
日曜日 午前 9時00分
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<阿漕教会 礼拝堂>
阿漕教会は、カンバーランド長老教会のA・Dヘール宣教師が、1909年(明治42)津市弓之町に大きな家を借りて「弓之町講義所」(津市本町)を開いたことに始まります。その後、最愛の息子J.E.ヘールを浅間山で亡くし、その記念として、1912年(大正元年)、阿漕の地に宣教師館を建て、教会堂もこの時に建てられました。それ以来、この教会堂は、第2次世界大戦の戦火を免れて約100年の時を刻んできました。
*礼拝をささげたいと思う方はどなたでもご自由にお越しください。 教会に初めて行こうと思っている方へ
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「祝福と災い」レビ記26章
レビ記の26章には、主なる神による「祝福と災い(呪い)」が記されています。これは、主なる神と約束を結んだ信仰者に与えられた戒めです。信仰の民は、偶像に頼らず主のみに信頼して仰ぐこと、主を礼拝する安息日を守ることを約束しました。この約束に従って生きる時、神は祝福を与え、収穫、平和を与え、敵を打ち砕いてくれます。しかし、主との約束を忘れて裏切る時、怒りを持って災いを与えられるのです。それでも、裏切り続ければ、主はさらに災いを加えます。
レビ記26章は「それでも」という言葉を4回も繰り返し、主に逆らい続ける民に警告します。事実、信仰の民は主に逆らい続け、災いを受け続けてきました。それは、単に主なる神が民を不幸に落とすという意味ではなく、「災い」を通して、「立ち帰ってほしい」という熱情なのです。主は罪に落ちる民をどこまでも厳しい裁きを持って追っかけます。それは民を決して見捨てないという愛なのです。民は主の約束を忘れても、主はその約束を忘れないのです。
主イエスが話された「放蕩息子のたとえ」は、その神の愛を明確に示しています。父親に逆らい続けてゆく息子は、友人を失い、財産を失い、次々と災いを受けます。すべてを失った時、彼は我に返りました。「わたしは天の神さまと父に罪を犯し続けて生きてきました。こんな人生を歩んでいてはいけない。父のもとに帰ろう!」と悔い改めたのです。
主なる神から離れて生きる時、それは災いを生みます。しかし、その時は、真実に大切なものを知る時、悔い改めて新しく生きるチャンスの時でもあるのです。
教会メール akogichurch@hotmail.com
〒514-0805 三重県津市下弁財町津興1267 TEL 059-228-0407 FAX 059-202-0160
牧師:加藤 幹夫
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