「唯一の神」
(第20章)-その1-


 出エジプト記20章には有名な十戒が書かれています。十戒は、モーセがシナイ山で神から授かったものですが、その第一戒は「あなたは私以外のなにものをも神としてはならない」という偶像礼拝の禁止です。「偶像」といえば先ず仏像を思い起こす人が多いのではないでしょうか。しかし、聖書で偶像という言葉の語源は「空しい」を意味する言葉です。
主なる神は実体の無い偶像を憎まれるのではなく、人間が偶像を「礼拝」することを憎まれるのです。「礼拝」の語源は「奴隷として働く」ということです。神ならざるものの奴隷となることを神は禁止しておられるのです。生きている人間は言うまでもなく、死人や刻んだ木石を神であるかの如く見立ててそれに仕えることは、文化でも伝統でもなく偶像礼拝です。これに対して、宇宙の創造者である神に従うことは、ちょうど浪も嵐もある人生という大海原を、確かな海図と羅針盤を持って航行するのに似ています。それに従う限り、目的地への道を失うことはありません。聖書がその海図であり、羅針盤なのです。

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「十戒を貫くもの」
(第20章)-その2-


 十戒はその名の通り十の戒めからなります。その全部を即座に挙げうる人はそうたくさんはいないと思いますが、幸いなことにイエスは十戒を2つに要約しておられます:誰よりもまず主なる神を愛することと、また自分を愛するように隣人をも愛すること(マタイ22 :37-40)。また十戒は形の上では3つの「しなさい」と、7つの「してはならない」という、二種類の戒めからできています。
禁止規定の方が倍以上多いことにあるいは圧迫感を覚えるでしょうか?しかし、それらの禁止は「殺すな、盗むな…」のように、人間として当然のことを規定しているのです。重要なのはそれら七つの禁止規定を貫いているのが、貪りという偶像崇拝を戒めているという事なのです。私達は小さい頃から「損をするな」という教育を受けてきました。しかしこれが世界で最も豊かな国に住みながら、なお貪り続ける心の貧困を来しているのではないでしょうか。「貪るな」とは「損のできる人間になれ」とのメッセージでもあるのです。なぜなら、最も損をした人が貪らないキリストだったからです。

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「最大の償い」
(第21章)


 私達は人に迷惑をかけて謝る時に「済みません」と言いますが、その本来の意味は「謝るだけで済むものでないことは承知していますが、どうか赦して下さい」というものでしょう。しかし、実際には謝るだけで済ますことが多いでしょうし、あるいは全く謝らないこともあります。そのような時、被害を受けた人は「目には目を、歯には歯を」という同害報復の思いでいっぱいになるでしょう。それどころか、時には限度を超えて復讐してしまうこともあります。
 聖書が「目には目を … 」と規定したのは、古代からのこうした際限のない復讐に歯止めを打ち出したもので、その当時に於いて非常に画期的なことでした。しかし主イエスはこれを更に押し進めて次のように言われました、「しかし、私はあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)。復讐はなにものをも解決せず、むしろ新たな復讐を生みます。また、失われたものが貴重なものであればあるほど、償いは不可能です。私達は最大の償いを十字架上のキリストの身代わりの贖いに見るのです。

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「悔い改めと償い」
(第22章)


 本章は広範な内容を持っていますが、その中心は「あなたは盗んではならない」という出エジ20:15 を更に詳しく述べたことにあります。しかし、盗みという犯罪については聖書に規定するまでもなく日本にも刑法があって、何が窃盗罪になるか、またその処罰はどうするかということが決められています。聖書の記述はどのような点で刑法と異なるのでしょうか?
 刑法は犯罪者を処罰することに関心がありますが、聖書は犯した罪をどのようにしたら償うことができるかという事を中心に述べています。また、単に物品を盗んだ場合だけではなく、婚前交渉(16) 魔法使い(18)、外国人圧迫(21)、利息貸(25)、主への献げ物を惜しむ(29)こと等の禁止も含められていることから伺われるのは、盗みが様々の誘惑的な形で私達のまわりにはびこっているということです。盗みの罪は単に盗んだものを返却すれば済むというものではありません。罪は「必ず償わなければならない」(22:3)のですが、それはキリストの贖いによる以外、完全な償いはないのです。

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「血の通った正義」
(第23章)


 この章の中心主題をひとことで言えば「正義」ということになりますが、私達の日常生活では現実感をもって迫ってこないかもしれません。しかし、ひとたび事件が起きたり、自分の身に困難がふりかかってくると、正義は俄然意識の表に出てきます。たとえば、今世の中を騒がせているオウム真理教事件などでは、誰もが義憤を感じますし、正義に則って事件の解明と審理を望むはずです。
 ところが、この教団を調査した人によれば、信者たちは一様に強い正義感を抱いているというのです。一体、どこがどうなれば、こんなにも大きな違いが出てくるのでしょう。
 「正義」の聖書的意味は“定規、はかり”であって、神の基準に従うことです。ですから彼らは教祖という人間的基準に従って大変な過ちを犯してしまったのです。 “人間のなしうる行為の残虐度はその人間が自分をどれだけ正義だと思っているかに比例する”と言った人がいますが、そのような危険に陥らないようにするためにも私達は聖書を通して神の御心に聴き従うことが大切なのです。

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「主にまみえた民」
(第24章)


 神を見た人はこの世の中にいるのでしょうか。聖書には「あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」(出エジ33 :20)とあって、人間が神の顔を拝することはできないと書かれています。ところが今日の聖書の箇所では、多数の人々が「神を見た」(出エジ24:10,11)とあります。
 この対照的な聖句をめぐって、古来多くの解釈がなされてきました。しかし、「神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした」(:11) とあることから、あるいは実際に見ることができたのかもしれません。
 さらに、11節で「見る」と訳されている言葉には“恋人たちが見つめる”という意味の単語が使われているのです。これは、共にいるというただそのことを喜ぶことで、相手の存在そのものを喜んでいる眼差しです。実に、主なる神が彼らをそばに呼び寄せ(:1)、招かれ会食している彼らも神を慕い仰ぐ眼差しで主なる神にまみえたのです。神はあなたの「存在そのもの」を喜び愛しておられます。

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「主がのぞまれる聖所」
(第25章)


 出エジプト記は25章から大きくその記録スタイルが変わります。それは奴隷状態だったエジプトからの脱出を果たし、今シナイ山で主なる神は民に十戒を授けて、これからの生き方を示す段階にようやく至ったからです。
 神はまず礼拝をしっかりしたものにするために、民に聖所の建造を指示されました。聖所といっても建物ではなく、荒野を旅するのにふさわしいテント造りのものです。その建造の材料についてモーセに次にように指示しています、「全て心から喜んでする者から、私に捧げる物を受け取りなさい」(:2)。
 宇宙を創造し、紅海を分け、百万を優に超える民に荒野でパンを授けることのできるお方が、どうして民に材料の供出を求めたのでしょうか?神は献げ物なしでも何でもできるお方であるはずです。
 ここで私達が学ぶことができるのは、神は私達に本心からの共同作業者であることを求めておられるのです。受動的信仰から、積極的に神の業に参加して行く、能動的信仰に導いておられるのです。

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「主の栄光を顕す幕屋」
(第26章)


 この章は幕屋とその中心にある聖所の構造と材料について、モーセがシナイ山で主から示された事柄が書かれています。非常に詳しく具体的な指示内容であり、いわば文字で書かれた設計図のようなものなので、読んでいて無味乾燥に思われるほどですが、30節の主の言葉「山で示された様式に従って幕屋を建てなければならない」は、新約聖書のヘブル8:5にも引用 されています。
 ヘブル書全体の内容は、旧約の詳細な規定にも関わらず、民が神の御心に反逆し、人類から救いの道が失われてしまったために、キリストが来て、十字架で人類の罪の身代わりに御自身を犠牲に捧げられ、新しい救いの道を開いて下さったということにあります。
出エジプト記に示されている幕屋は、こうして本当の救いの道であるキリストが来られるまでの仮のものであった事が分かります。
 この幕屋はまた「私達の地上の住みかである」(2コリ5:1)ともあるように、私達の身体も神の幕屋です。そして、この幕屋は、自分勝手にすべきものではなく、主の栄光のために用いられるべきです。

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「罪の赦しの祭壇」
(第27章)


 本章には祭壇に関する主の指示が書かれています。私達日本人のみならず、どの民族でも神をまつる祭壇がそれぞれの様式で存在しています。日本人も古来、思い思いの形で祭壇を作って、神を礼拝してきました。一体、そうした礼拝と聖書での礼拝はどのような点で異同があるのでしょうか?
 どの民族も祭壇で神を拝する共通の動機は、感謝・讃美・祈願です。しかし、聖書の祭壇での礼拝の際はまず、何らかの動物犠牲が捧げられました。それは人間には様々な罪があって感謝・讃美・祈願を捧げるにも、まず罪の赦しなくして神に近づくことはできないからです。本来ならば神の前に赦されるべくもない罪を、自分の身代わりに傷のない高価な動物を犠牲にすることによって、赦しを受けようとするのが聖書の祭壇犠牲の意味だったのです。
 しかし、動物犠牲は一時的・不完全な犠牲であり、人間の罪を完全に赦していただくことはできません。ここに、やがてキリストが来られて、完全な贖いをされた理由があるのです。

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「取りなしの祝福」
(第28章)


 出エジプト記28章には、大祭司の服装に関する詳細な記述があります。本来、人間の内面に大きな関心を払うはずの宗教が、どうして外面的の最たる服装にこれほどの関心を寄せるのかと思われるほどの詳しさです。それは実は、大祭司の役割と関係があるのです。大祭司はイスラエルの全ての人々を神に取りなす職務を持っていました。それで彼の服装には麗しい十二の宝石が縫いつけてあって、それらにはイスラエル12部族の名前が彫ってありました。大祭司は彼らの代表として、神に取りなしの祈りを捧げたのです。
 聖書には次のようにあります、「あなた方は、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である」(1ペテロ2:9)「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とを捧げなさい」(1テモテ2:1)。ともすると私達は自分のことだけを祈り求めてはいませんか。他の人々のためにも真剣に取りなすことが求められています。そしてそのような人に「麗しさ」が約束されています。

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「身代わりの捧げもの」
(第29章)


 本章の中心テーマは「犠牲」です。古代世界ならいざ知らず、現代の私達には縁遠いテーマと思われるかも知れませんが、つい先日起きたいじめを苦にして自殺した中学生の遺書にもこの言葉が出ていました。現代の生活の様々な面にも、犠牲の痛ましい事例は沢山あるのです。
 私達と死との関係には3つの場合((1)自分の死、(2)親しい人の死(3)第三者の死)を区別することができます。(1)自分の死では“どのような死を望むか”という事が問題になり、また(2)親しい人の死では“どのように受容するか”の問題が、しかし(3)第三者の死に対しては私達はそういう意識を持たないのが通例です。
 古代イスラエルでは、この第三者の死とも言うべき動物犠牲の中に、自分の死を重ね合わせて、神の前に立つことを自分たちの礼拝としたのです。それは人間の罪の身代わりとして動物を犠牲に捧げることを神が許されたからです。実にそれは、やがて来たるべきキリストの贖いを予告していたのでした。

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