『神様の喜ぶこと』 ホセア 6:1-11 
  
私が神学生になりたての頃の話です。 
先輩神学生に、次のような質問をしました。 
「○○さん、感動できる注解書ってないかなぁ?」 
すると、冷たい声で、次のような答えが返ってきました。 
「坂本さん、あなたは、注解書で感動したいの?」 
  
何も意識せずに質問したのですが、彼の言葉を聞いて、私の中で答えが出ました。 
「イエスさまに感動していない人の注解書なら、読んでも意味がない。」 
「イエスさまによって明らかにされた、神様の愛への感動がなくては、どんな神学も意味がない。」 
そのことを伝えると、彼は相手もしないで去っていきました。 
  
第6章1節から3節までには、素晴らしい言葉が並んでいます。 
でも、4節以降で神様はこれらの言葉を受け入れていません。 
最初に読んだとき、私は違和感覚えました。 
こんなに素晴らしい民の声なのに、なんでだろう?という違和感です。 
  
それは、この言葉に本物の心がなかったからです。 
第5章までに書かれている神様の言葉を受けて、この言葉はつくられました。 
それは、本心からではなく、知識でつくられた祈祷文だったのです。 
まるで、悪いことをしたあとに、相手の目も見ず横を向いたままで、ふてくされた声で「ごめんね」と言うようなものです。 
私たちは心をすべて見抜けはしませんが、神様は心を見られる方です。 
だから神様は、この言葉を受け入れなかったのです。 
  
わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(6節) 
これは、イエスさまが、何回も引用した聖句です。(マタイ9:13、12:7) 
きっと他の場面でも使ったことでしょう。 
宗教にがんじがらめになっていた人に対して、イエスさまはこの言葉をかけました。 
  
「誠実」、「神を知ること」とは、生き方そのものです。 
唯一の神様を認め、神様とともに生きることです。 
「いけにえ」とは、宗教儀式です。 
宗教儀式は、神様とのつながりを保つために、大切なことと言えましょう。 
ただ、そこに中身がともなっているならという条件付きです。 
中身がともなわない宗教儀式は、神様は受け入れないのです。 
  
現代の宗教儀式は、全焼のいけにえではなく、礼拝です。 
礼拝はもちろん大切なことです。 
でも、その場だけの気分の高揚であってはいけません。 
「教会行くと恵まれる、いい話が聞ける、力が与えられる。でも、一歩外にでると・・・・」では、神様の望まれる礼拝ではないのです。 
素晴らしい能力を持ったメッセンジャーであればあるだけ、その傾向が高いかも知れませんね。 
サンパウロ・ゴスペルハウスでは、その心配はないでしょう(笑)。 
  
そうではなくて、毎日の生活の場に神様を迎えることが大切です。 
神様を認め、ともに寝起きするのです。 
ご飯を食べているときも、家事をしているときも、仕事をしているときも。 
そして、神様を知りましょう。 
神様は、あなたを無限の愛で愛し、イエスさまのいのちをかけてまで赦し、あなたを宝物とする方です。 
そしてあなたは、その愛を一身に受ける者です。 
このアイデンティティーをもって生きること、それが神様の喜ぶことです。 
あなたが神様の愛を受けて、神様の宝物として生きることです。 
  
ある教会の日曜学校(大人の部)に、ゲストで行ったときのことです。 
全員で聖書の1つの章を読み終わったあと、「この章の主題はなんでしょう?」という質問がされました。 
それぞれの人が、さまざまな答えを出していました。 
「民の裏切り」「神様の裁き」等々・・・。 
  
確かに神学的には、いろいろ言いたいことがあるでしょう。 
でも、私はこう思うのです。 
「この章の主題は神様の愛です。」 
  
旧約・新約聖書は、イエスさまを示しています。 
イエスさまは、神様の愛の具現化したものです。 
聖書全66巻、全1189章、すべてがイエスさまによってあらわされた神様の愛を示しているのです。 
どこを切っても神様の愛、聖書金太郎飴説です。 
ここをとらえない限り、愛されて生き抜くことはできません。 
  
聖書は神様からあなたへのラブレターです。 
テーマは単純、神様の愛。 
それは理屈抜きです。 
あなたは、その愛を一身に受けて生きていいのです。 
いえ、生きるべきなのです。 
神様の愛をたっぷり受けて、イキイキと輝いて生きましょう。 
それが神様の喜ぶことです。 
  
神様に喜ばれ、自分を喜び、ハレルヤの人生を歩みましょう。 
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