レント2007 02
『ナタナエル 〜おだやかな奇蹟〜』 ヨハネ 1:43-51
この箇所は、イエスさまの公生涯初期の、はじめの弟子たちの召命の出来事です。
ナタナエルは、「神の賜物」という意味の名前で、ヨハネの福音書の第1章と第21章(最終章)に出てくるだけです。
十二弟子の一人で、バルトロマイという名で呼ばれていた者と同一人物ではないかとも考えられています。
ナタナエルは、イエスさまに出会ったピリポに紹介されました。
この箇所には、ピリポのすばらしさがあらわれています。
ナタナエルの「ナザレから救い主は出ない」との疑問に対し、こう答えたのです。
「来て、そして、見なさい。」(46節)
なんとすばらしい答えでしょう。
口数が多いのは、本物・核心をつかんでいない証拠です。
しかし、ピリポは本物をつかんでいたので、口数少なく、すべてを言い得たのです。
私は話が冗長になりがちなので、とてもためになるお手本です。
47節以降は、彼の人生を変えた出来事でした。
「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」(47節)
あったこともないのに、他人にこんなことを言われたら、あなたはどう感じますか。
嘘っぽい、または、おだてられていると感じないでしょうか。
「どうして私をご存じなのですか。」(48節)
ナタナエルは、きっと、いぶかしげに言ったことでしょう。
イエスさまは答えました。
「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」(48節)
イエスさまは、ナタナエルをすでに知ってたのです。
ナタナエルがイエスさまを知る前から、イエスさまはナタナエルを知っていて、偽りなく、神様を求めていたことも知っていたのです。
ナタナエルはいちじくの木の下で、何を思っていたのでしょうか。
聖書には書いていないので、私たちにはわかりません。
でも、イエスさまは知っていて、ナタナエルにはイエスさまが知っていることがわかったのです。
その上で、「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」(47節)と、イエスさまは言われたのです。
これは、とてもおだやかな奇蹟でした。
しかし、ナタナエルにとっては衝撃的な奇蹟だったのです。
自分をすでに知っていて、しかも、心の中まで知っていて、それでいて受け入れてくれる方がいるのです。
「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(49節)
これは、ナタナエルの心からの信仰告白です。
ナタナエルはこの後、生涯イエスさまとともに歩んだことでしょう。
しかし、神様に受け入れられているのは、ナタナエルだけではありません。
もちろん、あなたも、すでに神様に知られていて、受け入れられているのです。
洗礼を受けたからではなく、教会に礼拝にまじめに行ったからでもありません。
たくさん祈ったからでもなければ、献金をたくさんしたからでもありません。
あなたは、そのままで受け入れられているのです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(51節)
これこそ、イエスさまの最大の奇蹟であり、最大の目的です。
人間の罪のため閉じられた天の門を開け、神様との愛の関係を回復してくれたのです。
死人をよみがえらせたり、嵐を静めたりするような派手な奇蹟ではありません。
しかし、おだやかでありながら、衝撃的な奇蹟なのです。
イエスさまは、あなたのために、私のために、世界のすべての人のために、天国への道を開いてくれたのです。
それが十字架の愛です。
この愛は、いのちがけの愛、あなたのための愛なのです。
あなたは、神様に愛されています。
あなたの弱さも、醜さも、すべて知った上で、あなたを愛しているのです。
十字架の愛は、無条件の愛です。
さあ、待ち望みましょう。
天の窓は、あなたに、もう開かれています。
おだやかな、しかし衝撃的な奇蹟が、いま、あなたの人生におきるのです。
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