レント2007 03
『神の国』 ルカ 17:20-21
先週の日曜日のことです。
家族で散歩に出かけると、突然、次男のタリタ(3歳)が、こう言い出しました。
「イエスさまのところへ行く!」
私たちは、タリタの指差す方向へ歩いて行きました。
長男のはれる(6歳)は、「イエスさまのいるところは遠くて、歩いては行けないよ」と言います。
私が、「はれる、イエスさまってどこにいるんだっけ?」と聞くと、「はれるの心の中」と答えます。
「じゃ、遠くないんじゃない?」ということになって、私たちは、タリタの道案内どおりに歩いて行きました。
結局、私たちはタリタの道案内どおりに目的地につきました。
そこは、いつも行くスーパーのextra(エストラ)でした。
「エストラ」というスーパーの名前を、タリタは「イエスさま」と勘違いしていたのです。
さて、この聖書箇所は、神様の国についての問答です。
神の国とは、神様を主権者とした国です。
神様の愛に支えられた国といってもいいでしょう。
パリサイ人の考えていた神様の国は、イスラエル王国の再興です。
ローマ帝国の植民地支配から解放され、神様の民の王国の復興を望んでいたのです。
パリサイ人だけでなく、民衆もそうでした。
ローマからの解放をイエスさまに望んで、しゅろの日曜日にイエスさまをエルサレムに迎えたのでした。
しかし、イエスさまは、そのように見える国ではないと答えました。
「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(21節)
「ただ中にある」とは、いったいどこなのでしょう。
さまざまな解釈のうち、4つの解釈を紹介したいと思います。
1.神様の国は、あなたがたの心の中にある。
目に見える国ではなく、あなたの心の中に、神様の主権の国があるのです。
あなた自身が神様の宮であって、神様の国の舞台なのです。
はれるも、このように思っていました。
2.神様の国は、あなたがたの交わりの中にある。
「あなたのただ中」ではなく「あなたがたのただ中」ということは、人と人との間ということです。
私たちの交わりの中に神様の愛をあらわすとき、神様の国がそこに実現されるのです。
互いに赦しあい、受け入れあう、神様の国です。
3.神様の国は、あなたがたの中にいる私(イエスさま)にある。
イエスさまは、聞き手のただ中にいました。
イエスさまこそが、神様の国の具現者です。
罪ある人を神様の国に招き入れるために送られたいけにえです。
神様の国への門であり、導き手であり、神様の愛の具体的な形です。
4.神様の国は、あなたがたから、手の届くところにある。
神様の国は、一部の選ばれた宗教エリートだけのものではありません。
誰もが手を伸ばしたら届くようなところにあるのです。
そう、手に入れるための条件は、十字架を自分のためと受け入れるだけなのです。
私は、これら4つは、全部正しいと思うのです。
すべてで1つの神様の国をあらわしていると思うのです。
イエスさまによって、罪赦され、私たちは神様の宝物となりました。
宝物として、神様に愛されて生きるとき、神の国は私たちの心の中で確立されます。
そして、赦された者同士の交わりの中で、神様の愛ははっきりと姿をあらわすのです。
しかも、それは難しい手続きを踏んでのことではありません。
ただ、イエスさまの十字架の死を、自分のための死とするだけです。
一方的な憐れみによって、救いを受けるだけなのです。
そうです。
神様の国は、あなたのものなのです!
もう一度繰り返します。
イエスさまによって、あなたは神様の宝物です。
宝物としての人生の中で、あなたの中に神様の国があらわれます。
あなたに注がれた愛は、人間関係の中で、神様の国をあらわします。
あなたへの祝福は、もう、あなたの目の前においてあるのです。
祝福への鍵は、イエスさまの十字架です。
さあ、ちょっと手を伸ばして、イエスさまの十字架を受け取りましょう。
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