レント2007 06 
『本当のいやし』 イザヤ 第53章 
  
私がブラジルに来た2004年ごろは、日本では「いやし系」のブームでした。 
おもちゃから歌、絵画や詩、女優やタレントなど、猫もしゃくしも「いやし系」が存在しました。 
この頃はあまり騒がれなくなりましたので、ブームは終わってしまったんでしょう。 
その「いやし系」とは、ホンワカして、のんびりして、なんとなく落ち着く感じのものでした。 
一時的な心の休息、安心感を与えてくれるものでした。 
  
ブームが起こったのは、現代人の心がいやしを求めていた証拠でしょう。 
そして、ブームが去ったのは、一時的な休息や安心感では、物足りなかった証拠です。 
いやされなければならない、私たちの心の傷は、もっと深かったということです。 
  
イザヤ書第53章は、旧約聖書の中で、救い主を最もはっきりと預言する章と言われています。 
では、ここで表されている救い主とは、どんな救い主なんでしょう。 
驚くべきことに、それは、さげすまれている救い主なのです。 
「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」(2節) 
「 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。 
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(3節) 
  
この惨めな姿は、生活していく中で、私たち自身が受けるべき(受けてしまう)苦しみの姿です。 
いやしを必要とする、傷ついた私たちの姿です。 
また、苦しんでいるときの私たちの私たち自身への断罪でもあります。 
「私は、誰がが見とれるような姿もなく、輝きもなく、誰かが慕うような見ばえもない。」 
「私はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみ、人が顔をそむけるほどさげすまれ、誰も私を尊ばない。」 
そして私たちはこう言うのです。 
「彼(私)は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだ。」(4節) 
  
救い主イエスさまは、私たちの受けるべき痛みをすべて背負って十字架に向かい、十字架にかかったのです。 
なぜでしょう。 
それは、すべての人(あなた)をいやすためです。 
すべての人(あなた)をのろいから解放するためです。 
あなたの心の傷への本当にいやしが、ここにあるのです。 
それは、ホンワカ・のんびりではなく、血みどろ・傷だらけのいやしです。 
耳あたりのいい一時的なごまかしの安心感ではなく、永遠の本当のいやしなのです。 
  
私たちは、「悪いことしたら、神様から見捨てられる。罰が当たる。」と考えがちです。 
確かに、因果応報という言葉は正しいかもしれません。 
まいた種はいつか実ってしまうからです。 
しかし、1つ覚えていてください。 
因果応報の結果を負うのは、私たちではなく、イエスさまです。 
自分自身では負いきれない私たちの身代りに、イエスさまが負ってくれるのです。 
それは確かな身代り、完全な身代金です。 
  
イエスさまの十字架によって、この完全な本当のいやしはあなたのものです。 
これは、神様の御心(10節)であり、イエスさまの満足(11節)でもあります。 
もちろん、私たちもうれしいことです。 
  
ここで、たった1つだけ課題が残ります。 
それは、あなたの選択です。 
このいやしを自分自身のものとして受け取るか、関係ないとして受け取らないか、です。 
  
もし、受け取らなかったら、一時的ないやしを求めてウロウロするか、あきらめて失望のうちに沈んでいくかになります。 
  
しかし、受け取って生きるとき、あなたの人生に本当のいやしが与えられます。 
あなたに、神様の宝物、神様の王子・王女としてのアイデンティティーが与えられるのです。 
そのアイデンティティーは、すぐにはなじまないかも知れません。 
でも、あなたのものとして確かに与えられているのです。 
  
サンパウロ・ゴスペルハウスの聖書通読企画「御言葉の旅-365」では、イザヤ第53章はちょうどイースター(4月8日)の聖書箇所になっています。 
私が意識してそうしたわけではなく、神様からのすてきなプレゼントです。 
私たちの痛みを背負ったイエスさまの復活とともに、新しいアイデンティティー、神様の宝物として、ハレルヤの人生をスタートさせましょう。 
  
  
神様は、あなたに本当のいやしを与えました。 
それは、一時的なごまかしではなく、本当の永遠のいやし。 
ホンワカ・のんびりではなく、血みどろのいやしです。 
神様は、傷ついたあなたを、決して責めないし、見捨てません。 
十字架からあふれてくる祝福と愛を受け取りましょう。 
完全ないやし、本当のいやしは、もう、あなたのものです。 
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