第200回記念礼拝 
レント2007 07(受難週) 
『エルサレム入城』 ルカ 19:28-40 
  
明日は、しゅろの日曜日です。 
今週の聖書箇所は、その日曜日、イエスさまの、エルサレムへの最後の入城の場面です。 
この場面は、4つの福音書すべてに記述されていますので、4つとも読めば、より立体的に理解できることでしょう。 
(参照:マタイ21:1〜、マルコ11:1〜、ヨハネ12:12〜) 
  
今日はこの箇所から、ルカによる福音書に特有の次の言葉をキーにして、御言葉を開いていこうと思います。 
「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(40節) 
  
しゅろの日曜日、エルサレムへの最後の入城において、イエスさまはロバの子に乗って入城します。 
この当時、馬は戦争のときの王の乗り物であり、ロバは平和のときの王の乗り物でした。 
イエスさまは、平和の王としての主張をもって、エルサレムに入城したのです。 
旧約聖書:ゼカリヤ書9:9にこうあるとおりです。 
「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。 
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。 
この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。 
それも、雌ろばの子の子ろばに。」 
  
「私は平和の王である」というイエスさまの無言のメッセージを、残念ながら、群集は理解できていませんでした。 
それは、群集のイエスさまへの期待が、あまりに大きかったことにもよるでしょう。 
ローマの植民地としての圧迫感、閉塞的な宗教指導者たちの支配、民衆は解放を熱望していました。 
  
ですから、エフーを圧政からの解放の王(武力を通しての解放)として迎えたときのように、上着を道に敷きました。(参照:列王記下9:13) 
150年前、マカベア家のシモンがイスラエルの敵を打ち破り、エルサレムへ凱旋したときのように、しゅろを使って歓喜して迎えました。(参照:旧約聖書外典マカバイ記上13:51) 
また、38節にあるように、詩篇第118篇を引用してイエスさまを迎えました。 
この言葉は、イスラエルの敵を粉砕する王を期待し、歓迎する叫びでした。 
  
つまり、武力による解放を期待していたのです。 
「さあ、イエスさま!俺たちのリーダーとして立ち上がってくれ!」 
「みんなの力で、ローマを叩き潰し、神の国の再建のためのクーデターを!」 
「神様の力で、イエスさまの奇蹟で、ローマからの解放を!」 
「俺たちゃ、いつでも突進するぞ!」 
  
こんな暴動直前の状態で、パリサイ人はイエスさまに言いました。 
「先生。お弟子たちをしかってください。」(39節) 
これにイエスさまが答えます。 
「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(40節) 
  
さて、想像してください。 
このときのイエスさまの顔は、どんな表情だったでしょう。 
「困惑顔」「怒り顔」「諭し顔」「笑顔」・・・・・ 
私は、「笑顔」であったと確信しています。 
  
石は生きていません。 
石が叫ぶはずがありません。 
そして、石は理解するはずもありません。 
イエスさまはこう言いたいのです。 
「石のように無理解であっても、石のようにかたくなな心であってもかまわない。 
私は、その石(のような群集)のためにでさえ、十字架にかかる。」 
イエスさまは、いやいやではなく、愛をもって石のような私たちを受け入れてくれるのです。 
  
事実、この群集は、5日後には「イエスを殺せ」と叫んでいます。 
イエスさまが、自分たちの希望するような武力行使をしなかったからです。 
まさに、石のようなかたくなな心です。 
石のような無理解です。 
しかし、それをも受け入れる、イエスさまの愛がここにあります。 
それは、押し付けがましい愛ではありません。 
とてつもなく大きく、とてつもなく深い、ユニークな愛です。 
  
次のことを忘れないでください。 
「救いは私たちの信心から来るのではなく、イエスさまの十字架の愛から来る。」 
  
石のように無理解で、石のようにかたくなな私たちのために、イエスさまの十字架の愛が注がれるのです。 
これが救いです。これが福音です。 
何かをしたから得られる報酬ではなく、一方的に与えられる恵みです。 
  
石のように無理解のままでいいのです。 
石のようにかたくななままでいいのです。 
まずは、イエスさまの愛を受け入れましょう。 
そのとき、イエスさまのユニークな、いのちがけの愛が、私たちに注がれるのです。 
イエスさまの真っ赤な血潮を受けて、ただの石だった私たちは、真っ赤な石になります。 
そう、真っ赤な宝石、ルビーになるのです。 
  
ただの石から、神様の宝物の宝石へ、あなたは変えられるのです。 
もう、あなたの人生は、「ただの人生」ではありません。 
誰にでもできる人生ではなくなったのです。 
あなたにしかできない人生が始まります。 
誰にも変わることができない人生が始まります。 
そう、「神様の大切な宝石としての人生」が始まるのです。 
  
  
イエスさまの愛は、あまりにも大きく、あまりにも深い愛です。 
石のように無理解な心では、とらえきれないかもしれません。 
石のようにかたくなな心には、受け止めきれないかもしれません。 
でも、イエスさまはその石のために、喜んでいのちを捨てたのです。 
イエスさまの愛の血潮によって、あなたはもうただの石ではありません。 
神様の宝物、すてきな宝石になるのです。 
  
神様の宝石として、輝いて生きていきましょう。 
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