イースター2007 02 
『週の初めの日の夕方』 ヨハネ20:19-23 
  
今週の聖書箇所は、イエスさまの復活の日の夕方のことです。 
イエスさまが殺され、「次は自分が殺されるかも!」と恐れていた弟子たちのところへ、イエスさまがあらわれました。 
「平安があなたがたにあるように」は、当時の普通の挨拶です。 
  
今日は、次の言葉を中心に、御言葉を開いていきましょう。 
「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(21節) 
イエスさまからの宣教派遣の命令です。 
遣わされた者として任命され、福音を伝える使命を負ったのです。 
確かに、私たちは福音を告げるために、この世に遣わされた者です。 
しかし、今回はもう少し注意深くこの箇所を読んでいきたいと思います。 
  
「父がわたしを遣わしたように」 
イエスさまは、神様に遣わされた方でした。 
しかし、神様はイエスさまを派遣しっぱなしではありませんでした。 
イエスさまは、いつも神様に愛されていました。 
いつも神様と一緒にいました。 
  
イエスさまが、神様と一緒にいなかったのは、十字架の上でだけです。 
イエスさまは十字架上で叫びました。 
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」(マルコ15:34) 
(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。) 
このとき、全世界の呪いを一身に受けたイエスさまは、神様から切り離されました。 
それ以外の場面で、神様の力、神様の愛、神様の存在は、イエスさまから離れることはありませんでした。 
  
「わたしもあなたがたを遣わします」 
イエスさまは、そのように、私たちを遣わすと言うのです。 
つまり、神様がいつもイエスさまといたように、イエスさまは私たちといつも一緒にいてくれるのです。 
いつも愛してくれるのです。 
そして、決して見捨てないのです。 
つきっぱなす宣教命令(派遣命令)ではなく、ともに進みましょうとの約束・保証が、この言葉にはあるのです。 
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」は、イエスさまの十字架上で終わりました。 
もう、私たちは神様に見捨てられることはないのです。 
  
イエスさまは続けます。 
「聖霊を受けなさい。」(22節) 
聖霊様は、もう一人の助け主です。 
神様と同じ、イエスさまと同じ、三位一体の神様です。 
これまで弟子たちがイエスさまと歩んできたように、これからは聖霊様がいつも一緒にいるのです。 
聖霊様を受けるとは、何か宗教的に特別のことをするのではなく、生きた神様とともに生きることです。 
そして、イエスさまの十字架によって、この特権は、私たちすべての人に与えられているのです。 
  
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(23節) 
これは、私たちに裁く権利が与えられたというわけではありません。 
神様からの赦しを宣言する権利が与えられたのです。 
あくまで、主権は神様です。 
  
イエスさまは、裁くためではなく、赦すために遣わされました。 
この赦しは、十字架で完成・成就しました。 
そして、「父がわたしを遣わしたように」遣わされている私たちも、赦すために遣わされています。 
私たちは、イエスさまの十字架による赦しを宣言するために、遣わされているのです。 
神様からの赦しの宣言の権利は、今、私たちに与えられているのです。 
委ねられているのです。 
  
まず、自分自身に、罪の赦しを宣言しましょう。 
「イエスさまの十字架によって、あなたは赦されました!」 
「あなたは、神様とともに生きていていいんです!」 
「神様は、あなたを、決して見捨てません!」 
「神様も私も、あなたを愛しています!」 
  
次に、あなたの愛する人に宣言しましょう。 
そして、あなたを憎む人、あなたが愛せないと思う人にも、宣言するのです。 
そのとき、あなたの人生が、神様の愛と赦しに包まれるのです。 
遣わされた者としての人生が、スタートするのです。 
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