22   週の初めの日の夕方 (イースター2007 02 2007.04.14 第二礼拝)
イースター2007 02
『週の初めの日の夕方』 ヨハネ20:19-23
 
今週の聖書箇所は、イエスさまの復活の日の夕方のことです。
イエスさまが殺され、「次は自分が殺されるかも!」と恐れていた弟子たちのところへ、イエスさまがあらわれました。
「平安があなたがたにあるように」は、当時の普通の挨拶です。
 
今日は、次の言葉を中心に、御言葉を開いていきましょう。
「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(21節)
イエスさまからの宣教派遣の命令です。
遣わされた者として任命され、福音を伝える使命を負ったのです。
確かに、私たちは福音を告げるために、この世に遣わされた者です。
しかし、今回はもう少し注意深くこの箇所を読んでいきたいと思います。
 
「父がわたしを遣わしたように」
イエスさまは、神様に遣わされた方でした。
しかし、神様はイエスさまを派遣しっぱなしではありませんでした。
イエスさまは、いつも神様に愛されていました。
いつも神様と一緒にいました。
 
イエスさまが、神様と一緒にいなかったのは、十字架の上でだけです。
イエスさまは十字架上で叫びました。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」(マルコ15:34)
(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)
このとき、全世界の呪いを一身に受けたイエスさまは、神様から切り離されました。
それ以外の場面で、神様の力、神様の愛、神様の存在は、イエスさまから離れることはありませんでした。
 
「わたしもあなたがたを遣わします」
イエスさまは、そのように、私たちを遣わすと言うのです。
つまり、神様がいつもイエスさまといたように、イエスさまは私たちといつも一緒にいてくれるのです。
いつも愛してくれるのです。
そして、決して見捨てないのです。
つきっぱなす宣教命令(派遣命令)ではなく、ともに進みましょうとの約束・保証が、この言葉にはあるのです。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」は、イエスさまの十字架上で終わりました。
もう、私たちは神様に見捨てられることはないのです。
 
イエスさまは続けます。
「聖霊を受けなさい。」(22節)
聖霊様は、もう一人の助け主です。
神様と同じ、イエスさまと同じ、三位一体の神様です。
これまで弟子たちがイエスさまと歩んできたように、これからは聖霊様がいつも一緒にいるのです。
聖霊様を受けるとは、何か宗教的に特別のことをするのではなく、生きた神様とともに生きることです。
そして、イエスさまの十字架によって、この特権は、私たちすべての人に与えられているのです。
 
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(23節)
これは、私たちに裁く権利が与えられたというわけではありません。
神様からの赦しを宣言する権利が与えられたのです。
あくまで、主権は神様です。
 
イエスさまは、裁くためではなく、赦すために遣わされました。
この赦しは、十字架で完成・成就しました。
そして、「父がわたしを遣わしたように」遣わされている私たちも、赦すために遣わされています。
私たちは、イエスさまの十字架による赦しを宣言するために、遣わされているのです。
神様からの赦しの宣言の権利は、今、私たちに与えられているのです。
委ねられているのです。
 
まず、自分自身に、罪の赦しを宣言しましょう。
「イエスさまの十字架によって、あなたは赦されました!」
「あなたは、神様とともに生きていていいんです!」
「神様は、あなたを、決して見捨てません!」
「神様も私も、あなたを愛しています!」
 
次に、あなたの愛する人に宣言しましょう。
そして、あなたを憎む人、あなたが愛せないと思う人にも、宣言するのです。
そのとき、あなたの人生が、神様の愛と赦しに包まれるのです。
遣わされた者としての人生が、スタートするのです。



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