『そのとき、』 ゼパニヤ 第3章 
  
ゼパニア書は、旧約聖書の後半の小預言書の1つで、全3章、3000文字にも満たない短い預言書です。 
この預言書は、こんな言葉で始まります。 
わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。――主の御告げ。―― (1:2) 
それは、堕落した民の罪への裁きの宣告です。 
エルサレムに対して、そして、異邦人の国に対しての神様の裁きです。 
これは、徹底的な裁き、全面的な裁き、確実な裁きで、短いながらも、重厚な内容となっています。 
  
預言者ゼパニヤが活躍したのは、ヨシヤ王の時代です。(参照:列王記下第21章〜,歴代志下第33章〜) 
ヨシヤ王は、とてもいい王様で、神様との関係の回復に努め、宗教改革を促進しました。 
当時のユダヤ人にとって、宗教は生活そのものでしたから、生活改革を推進したといってもいいでしょう。 
しかし、こんなよいリーダーがいながら、堕落していくのが民の頑迷さ、愚かさです。 
この頑迷さに神様からの裁きが下されるのです。 
  
私がまだ若かった頃、また、子どもだった頃、両親や先生は親身になってくれていました。 
しかし、自分のことしか考えていなかった私は、やりたい放題でした。 
非常識な行動を繰り返し、まわりの人たちに迷惑をかけ、悲しませてきました。 
これは私だけでなく、皆さんも多かれ少なかれ経験していることなのではないでしょうか。 
すばらしいリーダーがいながらも、従いきれないのは昔の人々だけでなく、現代もそうなのです。 
  
神様は、この預言書の裁きの宣告の最後の箇所で、このように言っています。 
「まことに、全地はわたしのねたみの火によって、焼き尽くされる。」(3:8) 
ねたむとは、こだわってくれているということです。 
この感情は、私たちのことをあきらめないでいてくれるからこそ生じる感情です。 
それが裏切られたときに、私たちに残ったのは、残ったのは焼き尽くされる滅びなのです。 
  
  
神様は続けます。 
  
そのとき、(3:9) 
  
文脈から考えれば、ここから先は、完全な滅びの光景があるはずです。 
壮絶な、凄惨な、私たち人間に対しての裁きの執行の光景です。 
しかし、ここから文脈は大逆転します。 
「そのとき、」前の滅びの宣告から、喜びと勝利の賛美へと変化するのです。 
  
いったい、何があったのでしょうか? 
わたしは、国々の民のくちびるを変えてきよくする。(9節) 
民が、神様に立ち返ったのです。 
しかし、立ち返ったのは、自分たちの力ではなく、神様の力によってです。 
この立ち返りの主導権は神様がもっているのです。 
したいけどできない民にかわって、神様が与えてくれる力によって、立ち返ったのです。 
ここに、希望があります。 
  
私たちが生活していく中で、「したいけどできないこと」「したくないのにしてしまうこと」は多いのではないでしょうか。 
「本当は○○したいのに、つい、△△してしまう」 
子育てにおいて、仕事において、勉強、人間関係、etc...... 
私たちには、自分の力でどうにもならないことがたくさんあります。 
不完全な者、無力な者であることを思い知らされます。 
  
そんなとき、「どうせ・・・だから、」とあきらめますか? 
私たちはあきらめるかもしれません。 
しかし、神様は、決してあなたをあきらめないのです。 
ねたみの火によって焼き尽くしてしまうほどに、私たちを愛しているからです。 
そして、私たちに、力を与えてくれるのです。 
  
そして、私たちと神様との間に、新しい関係が始まったのです。 
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。 
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。 
主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。(3:17) 
私はこの聖句を読んだときに、あまりの驚きに声を失いました。 
今まで、私たちが神様にほめ歌を歌って、神様を喜ぶことしか考えていなかったのです。 
それが、神様が高らかに歌って私たちのことを喜ばれるなんて、考えも及びませんでした。 
  
神様が私たちとともに住み、神様があなたのことを喜ぶ人生が始まるのです。 
よく、キリスト教は愛の宗教・喜びの宗教といわれますが、私たちが神様を愛する何億倍も、神様は私たちを愛してくれているのです。 
そして、私たちが神様を喜ぶ何億倍も、神様は私たちを喜んでくれているのです。 
「そのとき、」から始まった、神様の愛の約束は、次の言葉で締めくくられています。 
地のすべての民の間であなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と主は仰せられる。(3:20) 
  
「そのとき、」それは、神様の愛と赦しが私たちの惜しみなく注がれ、私たちが受け取ったときのことです。 
2000年前のイエスさまの十字架で、また、ペンテコステの出来事で、これは成就しました。 
そうです、私たちは、「そのとき、」以後にいるのです! 
もう、「そのとき、」以前の裁きは私たちにはありません。 
そう、「そのとき、」以後の神様の愛が私たちを包んでいるからです。 
神様は声高く歌い、私たちを喜んでくれています。 
神様の宝物として、喜ばれ、愛されて生きていきましょう。 
  
  
「そのとき、」以後、それは、あなたが神様の愛の中で生きていい時代です。 
神様が、私たちとともにいて、私たちを宝物として愛してくれる時代です。 
あなたの中に神様が住み、神様の中であなたが住む時代です。 
神様が高らかに歌って、あなたのことを喜ばれる時代です。 
大きな大きな、大逆転の愛の中にある時代なのです。 
「そのとき、」以後、この時代は今、あなたの現実の中に与えられています。 
  
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