28   詩篇 第131篇 (詩篇に楽しもう17 2007.05.12第二礼拝)
詩篇に楽しもう 17
『詩篇第131篇』 詩篇第131篇
 
詩篇第131篇は、とっても短いけれども、とっても麗しい詩篇です。
謙遜の美しさと強さをとても上手に表現しています。
 
主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。
及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。(1節)
ここに書かれているのは、まさに、地に足の着いた人生です。
目先の事柄に踊らされることのない人生です。
「地道」という言葉が、ぴったり来る人生ですね。
私はこの「地道」という言葉、大好きです。
 
まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。(2節)
そして、この地道な生き方は、あきらめから来るものではなく、満足から来るものです。
その秘密はここにあります。
乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。(2節)
 
乳離れしていない子が母親の前にいるのは、当たり前です。
しかしここでは、乳離れした子と書いてあります。
乳離れした子、それは、母乳を必要なだけ飲んだ子どもです。
当時は3歳くらいが、乳離れの歳だったようですが、そこまでに満足いくだけ飲んだ子どもということです。
 
母乳は、母親の血液(いのち)からできる栄養あふれるいのちの飲み物です。
乳離れした子は、そのいのちをいっぱい受けた者です。
だから、安らげるし、くつろげるし、和む者なのです。
もしも、母乳が飲み足りなかったら、そうはできません。
 
そのようにということは、神様から愛と赦しといのちをいっぱい受けた者として、神様の前にいるということです。
これが、謙遜に生きることのできる秘訣、地道でありながら力強く満足して生きる秘訣です。
 
「そんなこと、私には無理!できない!」という人もいるかも知れません。
そういうあなたは、無理して乳離れする必要はありません。
いっぱいいっぱい神様の愛を受けて、満腹になるまでいたらいいのです。
乳離れできるまで、しっかりと神様に甘えることが大切です。
おなかいっぱいになるまで、神様に甘え、愛され、抱かれましょう。
あなたは、神様以外の乳でおなかいっぱいにしては、ダメです。
なぜなら、あなたは神様の子どもだからです。
 
この神様と私たちの関係を、雛形の体験として体験できる幼子は恵まれています。
また、与える側として体験できる母親も、恵まれた立場です。
しかし、幼子でも母親でもない人たちも、そこから漏れているわけではないのです。
誰でもはじめは子どもだったのです。
誰でも授乳期があり、甘えるしかなかった時期があったのです。
 
神様の愛をいっぱい受けて、神様のいのちをいっぱい受けて、神様の赦しと祝福をいっぱい受けて、乳離れしましょう。
そして、神様の前に立って、堅固な土台、地道な人生を歩んでいきましょう。
それは、派手な人生ではないかも知れません。
でも、喜びにあふれた人生です。
神様があなたのために用意した、ハレルヤの人生なのです。



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