29   詩篇 第126篇 (詩篇に楽しもう18 2007.05.19)
詩篇に楽しもう 18
『詩篇 第126篇』 詩篇 第126篇
 
詩篇第120篇から134篇までの15の詩篇には、「都上りの歌」という表題が付けられています。
都上りの歌とは、「三大祭の時にエルサレムに上る巡礼の歌」と理解されています。
 
この詩篇は、ユダヤの典型的な文学表現技法の通り、2節ごとに区切ることができます。
1〜2節は、バビロンからの解放と帰還の喜び、期待を歌っています。
3〜4節は、帰還後における、神様の民のさらなる助けと守りを求める祈りです。
5〜6節は、とっても有名な箇所です。
5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。
 
たくさんの人が、試練の中にあって、この聖句で励まされてきました。
試練の中で、神様の約束と力に信頼し回復を確信する姿を歌っているのです。
 
確かに、当時(捕囚からの解放直後〜城壁再建)は試練の時代でした。
イスラエルでは11月か12月に種がまかれ、寒い冬を越してから、5月ないし7月に収穫されます。
試練をこえての回復を表すには、もってこいの表現です。
 
さて、イスラエルの民にとって、種を蒔くことは、特別なことではありません。
小麦が主食の民なら、種を蒔くのは当たり前のことです。
まったくの日常生活の一部です。
ですから、「種を蒔く」というと、私たちは特別なことと思いがちですが、さほど特別な行事・行為ではありません。
 
「涙とともに種を蒔く者」とは、涙とともに日常生活を送っている人のことです。
自分自身や環境や状況や人間関係に、失望し、絶望している人です。
この徹底的に自分自身に絶望している人が、「喜び叫びながら」生きる人となると歌っているのです。
 
この逆接をつなげるものは何でしょうか。
その秘訣は、自分自身に徹底的に絶望したとき、下を向かず、神様を見上げることです。
「目を上げること!」これが聖書の原則です。
図式で表せば、こうなります。
人間(自分・他人)に徹底的に絶望 → 神様を見上げる → 祝福
私たちは、徹底的に絶望してもいいんです。
その絶望は、私たちが目を上げる限り、絶望のままには終わらないのですから。
 
聖書の人物の中でも、この体験者はいっぱいいます。
少し例を挙げますと、アブラハム(創13:14,22:13)、青銅の蛇(民21:4-9)、ナアマン将軍(2列5:1-27)、取税人の祈り(ルカ18:9-14)、放蕩息子(ルカ15:11-32)、長血の女(マタ9:20-22,マコ5:25-34,ルカ8:43-48) etc....
みんな、この原則の体験者です。
 
そして、このことの保証は、ここにあります。
「主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。」(3節)
私たちは、神様の大いなることを、喜んでいいんです。
神様は、私たちのために大いなることをしたからです。
そして、その中でもっとも大いなることが、イエスさまの十字架です。
この時期にイスラエルの民を捕囚から解放したように、神様のひとり子がいけにえとなって私たちを罪から解放したのです。
イエスさまの十字架、それは、あなたのための愛の証拠です。
 
あなたは、徹底的に人間に絶望していいんです。
自分にも、他人にも、状況にも、徹底的に絶望していいんです。
でも、下を向かないで、目を上げてください。
そのとき、心の底から喜び叫んで生きる人生が、あなたに与えられます。
大いなる愛によって、神様の無限の祝福は、すでに、あなたのものなのです。
新しい人生の扉は、もう、あなたの前に開かれています。



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