イエスさまと話そう48 
『ゲラサの男(4)---イエスさまの本分---』 
マルコ 5:1-20 (マタイ8:28-34、ルカ8:26-39) 
  
先週は、この箇所を読んだときに不思議と感じるところをメッセージしましたが、今週も同じように不思議に感じるところです。 
  
「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(19節) 
ここがなぜ不思議なのかというと、マルコの福音書では、いやしの後に、通常、イエスさまは口止めをするからです。 
例を挙げてみましょう。(以下すべてマルコの福音書の箇所です) 
ぜひとも、聖書を開いてお読みください。 
  
1:44 「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。」 
(らい病人をいやしたあとで) 
3:12 イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。 
(大勢の人の癒しの後、悪霊の礼拝に対して) 
5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、 
(タリタ・クミで知られる、会堂管理者ヤイロの娘を生き返らせたあとで) 
7:36 イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、 
(エパタで知られる、耳と口の不自由な人のいやしのあとで) 
8:26 そこでイエスは、彼を家に帰し、「村にはいって行かないように。」 
(目の見えない人のいやしのあとで) 
  
しかし、今回は口止めがないのです。 
口止めがないどころか、逆に、知らせるように命令されているのです。 
  
これはマルコの福音書中、唯一の例外です。 
  
なぜ、イエスさまはこのように命じられたのでしょうか。 
ある人たちは、ここがゲラサの地、異邦人の土地だからだと言います。 
ユダヤ人の地では、メシア(救い主)への過激な熱狂を抑える必要があったので、口止めをしました。 
ところがゲラサの地は、豚を飼っていることからも明らかなように、異邦人の土地です。 
ここでなら、メシアへの熱狂もないので、口止めする必要がなかったのです。 
  
しかし、この考えは、7:36の記述と矛盾します。 
エパタで知られるこのいやしは、ガリラヤ湖畔のデカポリスの地で起こったのです。 
つまり、今回の現場と同じ地区なのです。 
  
私の故郷の私鉄の駅の構内に、1軒の寿司屋がありました。 
その寿司屋に私は入ったことはないのですが、メニューに不思議なものが書いてありました。 
それは「コーヒー」です。 
寿司屋にコーヒー、ちょっと奇妙な取り合わせですね。 
  
この寿司屋に入ったお客さんが、寿司よりもコーヒーを気に入ったとしましょう。 
そして、まわりの人にこの店のコーヒーを宣伝し、コーヒーだけを飲みにお客さんが来るようになったらどうでしょうか。 
寿司屋にとっては、ちょっとありがた迷惑なのではないでしょうか。 
本分の寿司以外には、評価されたくもないし、宣伝されたくもないでしょう。 
  
全能の神様の御子イエスさまは、もちろん何でもできる方です。 
病気のいやし、勉強ができるように、仕事を与える、商売繁盛、交通安全・・・・などなど、できないことは、何一つありません。 
しかし、それらはイエスさまの本分ではありません。 
イエスさまはただの医者でもなければ、学習塾でもなく、職業安定所でも経営アドバイザーでもありません。 
イエスさまの本分は、「救い主」です。 
  
マルコの福音書の中には、この箇所のように積極的に知らせなさいとは言われていないものの、口止めもされていない箇所もあります。 
2:5 「子よ。あなたの罪は赦されました。」 →罪の赦し 
(中風の人のいやしのあとに) 
3:5 「手を伸ばしなさい。」 →罪からの解放・呪いからの解放 
(片手のなえた人のいやしのあとに) 
5:34 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。」 →信仰の回復・神様との関係回復 
(長血の女のいやしのあとに) 
9:23 「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 →不可能を可能にする愛と信仰 
(悪霊につかれた息子のいやしのまえに) 
  
「罪の赦し」「罪からの解放」「神様との関係の回復」「不可能を可能にする愛」、まさにこれらは、イエスさまの十字架の本分です。 
そして、十字架には、イエスさまのいのちを捨てるという「大きな犠牲」という側面もあります。 
これらは、本分であるから、語っても差し支えないのです。 
むしろ、積極的に語るべきなのです。 
  
裸でうろうろと歩いていた男は、「着物を着て、正気に返ってすわっている」(15節)ようになりました。 
彼は正気に戻りました。 
神様との関係、人との関係が回復したのです。 
そして、一人の関係の回復ために、大きな犠牲が払われたのです。 
2000頭の豚が、そのために死にました。 
イエスさまは、いのちがけで嵐を越えて、嵐を静めて、やってきました。 
たった一人の救いのためにです。 
大きな、大きな愛です。 
  
その上で、イエスさまはこう命じたのです。 
「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(19節) 
  
モノの価値は、それを手に入れるために支払われた代償で決まります。 
「・・万円の宝石」とか、「・・・万円の自動車」とか、「・・億円の名画」とかです。 
自分自身の価値を失っていた男に、イエスさまは価値を与えたのです。 
それは、豚2000頭以上の価値です。 
イエスさまがいのちがけで、湖を越えてやってくる価値です。 
「神様にとって、あなたの価値がどんなに高いものなのか、わかっただろう。わかったら、知らせなさい。」と、イエスさまは言われたのです。 
  
あなたにとっても他人事ではありません。 
  
あなたを神様のものとするために、イエスさまは神様の地位を捨てました。 
あなたのために侮辱され、十字架につけられました。 
あなたへのすべての呪いを背負って、死んでいったのです。 
あなたを神様の宝物として回復するためです。 
あなたのために、大きな犠牲が払われました。 
だから、あなたは、高価で貴い宝物なのです。 
  
イエスさまの本分を知り、あなた自身の価値を知り、この喜びを大いに知らせていきましょう。  
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