あなたへのラブレター 22 
『愛する者よ。』 第3ヨハネ 
  
先週は、ヨハネの第2の手紙開きましたが、今週は引続き、第3の手紙です。 
この手紙も、1章のみで15節の短い手紙です。 
ただ、第2の手紙に比べると、個人名が多く出てきて、より厄介な個別案件についての手紙といえます。 
  
この手紙の受取人(宛先)は、ガイオです。 
ガイオのプロフィールは詳しい記述がないので、推測するしかありません。 
この手紙でわかることは、ヨハネの関係する教会の、指導的立場・中心的立場にいる愛と真実の人ということです。 
そして問題は、デオテレペスという男のことです。 
彼は、教会の中でかしらになろうとしている野心家です。 
そして教会に混乱が起こってしまっているので、ヨハネはガイオに手紙を書いたのです。 
くだけた言い方をすれば、「ガイオよ、指導者として、しっかりせぇよ!」という、叱咤激励の手紙なのです。 
  
この叱咤激励の手紙で、ヨハネは次のようにガイオに呼びかけています。 
「愛する者よ。」(2・5・11節) 
「私は(あなたのことを)非常に喜んでいます。」(3節) 
「(あなたが神様と共にいることほど)私にとって大きな喜びはありません。」(4節) 
叱咤激励の手紙には、あまりにも似つかわしくない表現といえます。 
まさに、『いかれちゃっている』ヨハネならではの表現です。 
私は常々、ヨハネはいかれちゃっていると思っています。 
彼は、イエスさまの愛によって、いかれちゃっている男なのです。 
そんな彼にとっては、ガイオが、イエスさまの愛をいっぱい受けて、その愛の中にいてくれることが、最高の喜びなのです。 
  
では、ここで問題にされているデオテレペスとは、どういう人でしょうか。 
聖書には詳しい記述はありません。 
しかし、私は、デオテレペスは正しい人だと思うのです。 
そうでなければ、みんなのかしらになろうとは思えないでしょう。 
また、たとえ思ったとしても、無理な話しなので、相手にされないのが落ちでしょう。 
しかし実際、彼は教会を混乱させるほどだったのです。 
これは、彼が正しい人だったことを表しているのではないでしょうか。 
  
正しいことはいいことです。 
でも、それ以上のことがあります。 
ヨハネ福音書の12章に次のような記述があります。 
  
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。 
家は香油のかおりでいっぱいになった。 
ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。 
「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 
(中略) 
イエスは言われた。 
「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」(ヨハネ12:3-8、一部略) 
  
300デナリといえば、労働者の300日分の給料です。 
その香油を、惜しげもなくイエスさまの足を洗うためにマリアは使いました。 
もったいない話しです。 
ですから、イスカリオテ・ユダの指摘はとっても正しい指摘なのです。 
しかし、彼の指摘には「愛」がありませんでした。 
正しさよりも上のもの、それは「愛」なのです。 
愛なき正しさは、人を傷つけ、人を殺します。 
独りよがりの正しさなのです。 
  
マリヤの行為は、正しさを超越した愛のなせるわざでした。 
マリヤも、ヨハネと同様に、愛にいかれちゃっている人だったのです。 
  
「それで、私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです。」(10節) 
ヨハネは問題解決のため、デオテレペスに会うことを考えています。 
さて、ヨハネはデオテレペスにあって、何をするでしょう?何を言うでしょう? 
皆さんは何を言うと思いますか? 
そうです、ヨハネはデオテレペスに、「愛する者よ。」と言うでしょう。 
ヨハネは、いかれてるから言えるのです。 
  
そしてまた、何よりも彼自身がデオテレペスだったから言えるのです。 
ルカ福音書9章には、彼の正しさがよく描かれています。 
  
ヨハネが答えて言った。 
「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」 
しかしイエスは、彼に言われた。 
「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」 
  
さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。 
彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。 
しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。 
弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。 
「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」 
しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。 
そして一行は別の村に行った。 (ルカ9:49-56) 
  
自分の正しさを、はっきりと、しかも激しく主張するヨハネの姿、それは、デオテレペスそのものです。 
しかし、そんなヨハネを愛してくれたイエスさまがいたのです。 
正しさを破壊してまで、愛してくれたイエスさまがいたのです。 
ヨハネは、イエスさまが十字架で死んでしまうまで、そのことを理解できてはいなかったことでしょう。 
「俺は正しいのに・・・」と、不満に思ったこともあったでしょう。 
  
しかし、彼は目撃者になったのです。 
正しさを押し曲げてまで、すべての人のためにいのちを捨てた、大矛盾の十字架の愛を見たのです。 
そして、その後の生涯で、自分がいかに愛されていたのかを、何十年もかけて、しっかりと味わってきたのです。 
ヨハネ福音書の中で、自分のことを「イエスの愛された弟子」と書けるほどに。 
そして、デオテレペスにも、その愛を味わってもらいたい!と、思ったのです 
  
「愛する者よ。」 
叱咤激励するときも、譴責をくわえるときも、ヨハネはここからでした。 
私たちも、まずここからはじめましょう。 
そのためには、ヨハネのようにいかれちゃいましょう。 
いかれるほどに、神様から愛をいっぱい注いでもらいましょう。 
それは、自分の正しさを破壊してくれるほどの愛です。 
  
どうしたら、そんな愛がもらえるのでしょうか。 
答えは簡単です。 
神様に求めたら、与えてくれます。 
いえ、もうすでに与えられているのです。 
イエスさまの十字架を通して与えられた、この巨大な愛を実感させてもらいましょう。 
愛にいかれちゃった幸せは、ヨハネだけのものじゃないのです! 
  
そのとき、あなたは、「愛する者よ。」と言える人になるのです。 
あなたの生涯は、愛する人に囲まれた生涯になります。 
「これ以上に大きな喜びがない。」と言える、人生があなたのものとなるのです。 
神様は、「愛するあなた」に、この人生を用意して待っているのです。 
「愛する者よ。」って、呼びかけながら。  
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