御言葉の旅(第2期:403) 準備礼拝(2) 
『わたしは新しいことをする』 イザヤ書 43:16-21 
  
イスラエルの民が、神様と一緒にいるという実感を一番持っていた時代は、出エジプトのときでしょう。 
そのため、出エジプトの出来事は、聖書のほかの箇所に何度も引用されています。 
今週の聖書箇所も、そのうちの一つです。 
  
約束の地・カナンへイスラエルの民を送るために、神様はたくさんの大きな業をしました。 
海を分けたり、岩から水を出したり、毎日マナを降らせたりetc.と、イスラエルの民は、神様の力を「これでもか」と見せ付けられてきました。 
毎日このような奇蹟を目の当たりにしたら、神様がいるかいないかなどという議論は成立しないでしょう。 
それほど確かな神様の臨在だったのです。 
  
そして今、宗教的にも社会的にも行き詰っているイスラエルの民に、神様の声がかかったのです。 
「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」(19節) 
行き詰った民に、神様が新しいことをなすというのです。 
  
その直前で、神様はこう言っています。 
「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。」(18節) 
これは少しわかりにくいですね。 
現代訳聖書では、この箇所を次のように訳しています。 
「出エジプトの時の出来事など、これからする事と比べたら問題にならない。」 
出エジプトといったら、奇蹟のオンパレードです。 
それ以上のそんなすごいことが、起こるのでしょうか? 
心配御無用、神様が起こると言ったら、起こるのです。 
  
出エジプトは、エジプトで奴隷になっていた民の、約束の地カナンへの旅です。 
それは、アブラハムに約束された、約束の地の回復でした。 
では、新しいこととは何でしょう。 
それは、約束の神様の国への旅です。 
アダムに与えられていた、神様との愛の交わりの地の回復なのです。 
罪の奴隷になっている人間に対して、神様の解放の奇蹟なのです。 
  
出エジプトよりも大きな奇蹟に与えられたのは、マナよりもすてきなパンです。 
マナの代わりに、生きた永遠のパン・イエスさまが与えられました。 
マナを民に送っても、神様は痛くも痒くもありません。 
しかし、イエスさまを送るのには、神様はとてつもなく大きな痛みをともないました。 
愛するひとり子を、十字架で殺さなくてはならなかったのですから。 
これだけでも、出エジプトよりもずっと大きな出来事ということがわかります。 
  
神様は、イスラエルの民を雛形として選びました。 
彼らは、全世界の雛形です。 
あなたはもちろん全世界の中にいます。 
そう、神様の言う「新しいこと」は、あなたの人生に起こるのです。 
野の獣やジャッカルやダチョウでさえも、その奇蹟を賛美できるのです。 
あなたが外れる理由はありません。 
  
聖書は、その約束の確かな証拠です。 
愛の保証書です。 
読み進めていくなら、この約束が「現実」、「確かなもの」とわかるでしょう。 
  
これから始まる御言葉の旅で、聖書の約束をあなたものにしましょう。 
「そうなったらいいだろうなぁ。」から「うれしいなぁ。」へ。 
「それは昔のはなし・他人のはなし」から「わたしのはなし」へ。 
  
奇蹟を目の当たりにした出エジプトの民は、特別な人たちではありませんでした。 
彼らの特別な力が、奇蹟を起こしたわけでも、誘発したわけではありません。 
ただ、神様と共に旅をしただけです。 
そこに働いたのは、民の力ではなく、ただ神様の力なのです。 
  
あなたの人生には、それ以上の奇蹟が待っています。 
それは、あなたの力ではなく、神様の力です。 
「新しいこと」それは、神様からの一方的な愛のプレゼントなのです! 
  
これから始まる旅に、期待しましょう。 
神様といっしょに旅立ちましょう。 
あなたのその一歩が、新しいこと、神様の愛の奇蹟への第一歩なのです。  
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