58   アブラハムの出発(御言葉の旅出発(2) 2007.11.17第2礼拝)
御言葉の旅(第2期:403) 出発礼拝(2)
『アブラハムの出発』 ヘブル 11:8-12
 
ユダヤ人の歴史は、人類救済の歴史です。
そして、信仰の父・アブラハムの選びが、その出発点です。
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)
この神様の語りかけですべてがスタートしました。
「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」(創世記12:4)
 
今週の箇所も、ここを指しています。
ここを読むと、アブラハムはたいそう立派な人格者です。
しかし、彼の旅は揺らぎのないものだったのでしょうか。
いいえ、そうではありません。
創世記の12章からを読んでいけばわかりますが、彼の歩みは、揺らぎ、失敗続きでした。
行き過ぎ、自分勝手な判断、ウソによる窮地・・・・信仰の父としての資質を疑うような出来事ばかりです。
自分の保身のために妻を犠牲にし、しかも、それを繰り返す姿は、まるで普通の人です。
まるで普通の人以下、中途半端な、小ずるい男の姿がそこにはあります。
 
では、アブラハムの妻・サラはどうでしょう。
彼女は、子どもを与える祝福の約束を、心の中で笑い飛ばしてしまいました(創世記18:12)。
また、アブラハムも同様でした(17:17)。
それゆえ、子どもの名前は、イサク(笑いという意味)になりました。
サラは、心の中の笑を指摘され、恐ろしくなり、かしこまっただけです。
信じる力が強かったわけではありません。
ただ、恐ろしかっただけです。
サラは、現金な老女です。
 
小ずるい男アブラハムと現金な老女サラ、この夫婦が祝福された理由はなんでしょう。
信仰の父、約束の子の母となった理由はなんでしょう。
「どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」(8節)
アブラハムは神様の声に従い出て行きました。
そして、サラはアブラハムに従い出て行いました。
確かに、立派な旅路ではありませんでしたが、大切なのは、一歩を踏み出すことです。
一歩を踏み出した者に、神様の奇蹟を見る資格が与えられるのです。
これが信仰者の姿です。
誰も完全な者ではありません、弱い者・醜い者です。
そこに神様の力が現れるのです。
 
「 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリ1:18)
御言葉の旅のテーマ聖句です。
神様の力を御言葉を通して体験する旅です。
人間の知恵ではなく、神様の言葉の力を信頼する旅です。
まるで、アブラハムとサラの旅路と同じでしょう。
 
失敗してもいいんです。
立ち行かなくなってもいいんです。
行き過ぎも挫折もあっていいんです。
それが人間なのですから。
神様は、その弱さを責める方ではありません。
そうなら、私たちはひとたまりもないでしょう。
旅の中で、神様の愛をいっぱい受けて、堅く立ち、力を受け、笑える旅なのです。
 
アブラハムとサラは一歩を踏み出しました。
そして、神様の力・奇蹟の受け手になったのです。
あなたはどうしますか。
笑い飛ばして無視することもできます。
一歩を踏み出すこともできます。
選択はあなたの中にあるのです。
 
出発のときが来ました。
さあ、いま、一歩を踏み出しましょう。
目の前に広がる祝福はあなたのものです。



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