御言葉の旅(第2期:403) 出発礼拝(2)  
『アブラハムの出発』 ヘブル 11:8-12 
  
ユダヤ人の歴史は、人類救済の歴史です。 
そして、信仰の父・アブラハムの選びが、その出発点です。 
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1) 
この神様の語りかけですべてがスタートしました。 
「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」(創世記12:4) 
  
今週の箇所も、ここを指しています。 
ここを読むと、アブラハムはたいそう立派な人格者です。 
しかし、彼の旅は揺らぎのないものだったのでしょうか。 
いいえ、そうではありません。 
創世記の12章からを読んでいけばわかりますが、彼の歩みは、揺らぎ、失敗続きでした。 
行き過ぎ、自分勝手な判断、ウソによる窮地・・・・信仰の父としての資質を疑うような出来事ばかりです。 
自分の保身のために妻を犠牲にし、しかも、それを繰り返す姿は、まるで普通の人です。 
まるで普通の人以下、中途半端な、小ずるい男の姿がそこにはあります。 
  
では、アブラハムの妻・サラはどうでしょう。 
彼女は、子どもを与える祝福の約束を、心の中で笑い飛ばしてしまいました(創世記18:12)。 
また、アブラハムも同様でした(17:17)。 
それゆえ、子どもの名前は、イサク(笑いという意味)になりました。 
サラは、心の中の笑を指摘され、恐ろしくなり、かしこまっただけです。 
信じる力が強かったわけではありません。 
ただ、恐ろしかっただけです。 
サラは、現金な老女です。 
  
小ずるい男アブラハムと現金な老女サラ、この夫婦が祝福された理由はなんでしょう。 
信仰の父、約束の子の母となった理由はなんでしょう。 
「どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」(8節) 
アブラハムは神様の声に従い出て行きました。 
そして、サラはアブラハムに従い出て行いました。 
確かに、立派な旅路ではありませんでしたが、大切なのは、一歩を踏み出すことです。 
一歩を踏み出した者に、神様の奇蹟を見る資格が与えられるのです。 
これが信仰者の姿です。 
誰も完全な者ではありません、弱い者・醜い者です。 
そこに神様の力が現れるのです。 
  
「 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリ1:18) 
御言葉の旅のテーマ聖句です。 
神様の力を御言葉を通して体験する旅です。 
人間の知恵ではなく、神様の言葉の力を信頼する旅です。 
まるで、アブラハムとサラの旅路と同じでしょう。 
  
失敗してもいいんです。 
立ち行かなくなってもいいんです。 
行き過ぎも挫折もあっていいんです。 
それが人間なのですから。 
神様は、その弱さを責める方ではありません。 
そうなら、私たちはひとたまりもないでしょう。 
旅の中で、神様の愛をいっぱい受けて、堅く立ち、力を受け、笑える旅なのです。 
  
アブラハムとサラは一歩を踏み出しました。 
そして、神様の力・奇蹟の受け手になったのです。 
あなたはどうしますか。 
笑い飛ばして無視することもできます。 
一歩を踏み出すこともできます。 
選択はあなたの中にあるのです。 
  
出発のときが来ました。 
さあ、いま、一歩を踏み出しましょう。 
目の前に広がる祝福はあなたのものです。  
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