イエスさまと話そう51
『いっしょに』 マタイ 26:36-38
この聖書箇所の舞台は、オリーブ山のゲッセマネの園です。
十字架にかかる前日、最後の晩餐の後、イエスさまが逮捕される直前のこと。
イエスさまは、ここに祈りに来ました。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(39節)
これから起こること、十字架上の死は、イエスさまをもってしても、とても重い使命でした。
この使命は、イエスさまにしか担えないものでした。
罪のない者だけが、つまりイエスさまだけが、罪の身代りになることができたのです。
他の人は罪人なので、何の役にも立ちません。
イエスさまにこれから起こる苦しみは、イエスさまの人生すべてを否定される苦しみでした。
イエスさまは神様と、永遠の愛の関係の中にいました。
しかし、その神様とのつながりが否定されるのです。
神様に呪われるのです。
罪の中に落ちるのです。
イエスさまには、すべてが未体験の苦しみでした。
体験するはずもない苦しみでした。
でも、十字架上の死は、イエスさま以外ではできない使命でもあったのです。
イエスさまは、苦しみの極みにありました。
私たちの人生には、苦しみがあります。
クリスチャンであっても、クリスチャンでなくっても、それは変わりはありません。
「・・を信じたら、苦しみがなくなる」
なんていうのは、ニセモノの宗教です。
大きな苦しみ、小さな苦しみ、つまんない事や重大な事、たくさんの苦しみが私たちの人生にはあります。
苦しみは、だれも避けて通れないものなのです。
耐え切れない苦しみに出会ったときにどうしたらいいか、この箇所が教えてくれます。
「ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」(38節)
イエスさまは、弟子たちに頼ることは一度もありませんでした。
弟子たちには頼られっぱなしで、イエスさまは弟子の世話し続けるばかりでした。
そのイエスさまが、耐え切れない苦しみのときに、弟子たちに願ったことは何でしょう。
それは、「わたしといっしょに」いることでした。
弟子たちに、この問題の根本的な解決は無理です。
でも、イエスさまは、弟子たちにいっしょにいてほしかったのです。
いっしょにいることは、それだけで力なのです。
私の塾の生徒について、「うちの子は、私がいっしょにいないと何もしないんです。」と相談しに来る親御さんがいます。
このことは、「いっしょにいたら、力をもらってできる」ということの裏返しの表現ではないでしょうか。
繰り返しますが、いっしょにいることは、それだけで力なのです。
ただし、このとき弟子たちは寝てしまって、あまり(何も)役には立たなかったようですが。(参照:40-45節)
苦しみのときに、誰かがいっしょにいてくれるだけで力づけられる、それが人間です。
聖書もそう宣言しています。
これは聖書の中で「ひとり」という言葉が最初に出て来る箇所です。
一人がどういう状態なのか、ひと言で表されています。
「人が、ひとりでいるのは良くない。」(創世記2:18)
また、誰かがいっしょにいてくれる強さも語られています。
「ふたりはひとりよりもまさっている。
ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。
倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。
もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。
三つ撚りの糸は簡単には切れない。」(伝道者の書4:9-12)
聖書の原則に「神様は命令しっぱなしではない。」というものがあります。
人間は命令はするけれども自分はできないということも多いのですが、神様はそうではないのです。
イエスさまが苦しみの極みで、誰かに一緒にいて欲しいと思ったのです。
ということは、あなたの苦しみの時にも、「いっしょに」の人が与えられているのです。
もし、誰もいないという人がいたら、私があなたといっしょにいます。
いつでも、苦しみをぶちまけてください。
私は十二弟子ほど立派ではないですが、彼らのように途中で寝てしまうことはないです。
もちろん、本質的な解決をする力を持ち合わせてはいませんが・・・・・
「じゃあ、役に立たないじゃん。」とあきらめる必要はありません。
大丈夫、イエスさまがいっしょにいるのです!
イエスさまは、命令しっぱなしではありません。
責任を取る方なのです。
孤独のつらさを知っている方です。
受け入れてくれる方なのです。
あなたの苦しみの中に、あなたの過去の傷に、イエスさまを迎えましょう。
そこに癒しと解放があるのです。
イエスさまは、あなたの孤独のつらさを受け止めてくれます。
イエスさまが、孤独のつらさを知っているからです。
もうあなたは孤独にされません。
イエスさまが共にいるからです。
いっしょにいてくれるイエスさまに、目を上げましょう。
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