60   喜びのために (話そう51 2007.11.27 第2礼拝)
メッセンジャーはイエスさま 22
『喜びのために』 ヨハネ 16:20-24
 
この箇所は、第1礼拝の聖書箇所のちょっと前、最後の晩餐のときのイエスさまの告別メッセージです。
「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。
しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(16節)
十字架を前にしたイエスさまのメッセージに、弟子たちは浮き足立ちました。
 
さて、「見なくなります。」そして再び「見ます。」とありますが、それぞれ、何を指しているんでしょうか。
「十字架で死ぬ。」→「3日目に復活する。」
「復活後に昇天する。」→「再臨で帰ってくる。」
「復活後に昇天する。」→「ペンテコステのときに、聖霊様が帰ってくる。」
本を読んでみると、いろんな説があるようです。
 
私は、全部正解なのではないだろうか、と思います。
なぜなら、イエスさまはそういう物言いをする方だからです。
一つの表現で、いくつもの意味を中に入れ込む表現をされる方なのです。
「あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(20節)
これも、この3つの解釈のいずれの場合にも当てはまります。
 
十字架も昇天も、復活も再臨もペンテコステも、みんな神様の計画の中です。
神様は、私たちを悲しみや嘆きの中には捨て置かないのです。
私たちには、救いと回復と喜びが備えられているのです。
 
その喜びを、イエスさまは次のようにたとえました。
「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」(21節)
お産の苦しみは、神様の与えたものです。
「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。」(創世記3:16)
でも、生まれてくれたことは、それを忘れさり、吹き飛ばすほどの大きな喜びなのです。
だから誕生日は、苦しみの思い出を語る日ではなく、生まれたことを祝う日、喜びの日なのです。
 
奇しくも今日は、ななえちゃん(ゴスペルハウスメンバー)の7歳の誕生日です。
誕生日、それは生まれた日を、そして生きてきた日々を喜ぶ日です。
そして、誰でも誕生日を1つ持っています。
だから、生まれてきたことも、生きていることも喜んでいいのです。
その保証は、苦しみを喜びに変えてくれる神様が、あなたを愛しているからです。
いのちがけで愛しているからです。
 
苦しみは苦しみで終わりません。
その先に、必ず神様からの喜びがあるのです。
その喜びを見つめて歩むとき、私たちは喜びに到達します。
その苦しみを見つめて歩むとき、私たちは苦しみの中で長く迷うことになります。
見つめて歩むもののところへ、私たちは行くのです。
 
あなたの苦しみ悲しみの先には、神様の用意した喜びがあります。
喜びのために、激しい苦痛まで忘れるほどの、大きな祝福が用意されているのです。
それを信じて、見つめて、歩んでいきましょう。
 
 
苦しみにとらわれないで、その先の喜びを見つめて歩みましょう。
祝福の門は、あなたの前に開けられているのです。
この祝福は、誕生日が1つずつあるように、誰にでも必ず、与えられているのです。
産みの苦しみの先にある、誕生の喜びのように。
あなたが生まれたことも、生きていることも、喜んでいいんです。
 
私はあなたを喜んでいます!



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