イエスさまと話そう44 
『たくさんの魚』ルカ 5:1-11 
  
私は、10代・20代の頃、クリスチャンを嫌っていました。 
一度も教会に行ったことがなく、聖書も読んだことがなかったのですが、とにかく嫌いだったのです。 
一番の嫌いな理由は、「祈ること」です。 
自分の努力こそ大切であると考えていた私にとって、祈りは怠惰の象徴であったのです。 
「祈るのではなく、自分の力で突き進まなくて何が人生か!」 
こんな風に考えていました。 
クリスチャンは、消極的で受動的な人間と決め付け、教会や十字架を見るたびに、機嫌が悪くなっていたものです。 
  
今週の聖書箇所に登場する、ペテロ(シモン)ら漁師たちも同じだったのではないでしょうか。 
すぐ近くで、たくさんの群集がイエスさまの話を聞いているのに、彼ら漁師たちは、話も聞かずに、網を洗っていたのです。 
神様の言葉より、今日一日の仕事やもうけのほうが大切だったのです。 
彼らにとって、飯の種にならないものは、無駄話でしかありません。 
しかも、夜通し働いたにもかかわらず何もとれなかった彼らは、機嫌も悪かったことでしょう。 
  
ですから、舟を出してくれとイエスさまに頼まれても、喜んでしたわけではありません。 
ユダヤは宗教国家、宗教民族でありますから、ラビであるイエスさまに頼まれたらイヤとは言いにくいでしょう。 
イエスさまを慕っている群集もきっと怒るでしょうし。 
また、夜通し働いても何もとれなかったから、時間をもてあましてもいたので、舟を出したのでしょう。 
  
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。(4節) 
奇蹟はいつもイエスさまからスタートします。 
イエスさまは言葉だけで奇蹟をたくさん起こしました。 
死人を生き返らせたり、目が見えるようになったり、嵐をしずめたりという奇蹟です。 
でも、それだけでは奇蹟が起こらない場合もあったのです。 
それは、言葉を受けた者の反応、応答が求められる奇蹟です。 
ヨハネ第9章の盲人の癒しなどはその一例ですし、今回もその例です。 
  
ペテロは答えます。 
「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」(5節) 
およそ漁師とは関係のない大工の息子イエスさまの言葉です。 
夜通し働いて無駄骨だった、八方ふさがりの自分の状況です。 
しかしペテロは、「でもおことばどおり」と従ったのです。 
  
もしかしたら、ラビであるイエスさまの面子を立てるために、舟を沖に出しただけかも知れません。 
いえ、きっとそうだったでしょう。 
しかし、彼は確かに舟を沖に出し、網をおろしたのです。 
「おことばどおりに」です。 
ペテロは、自分の経験や知識を、自分で作った限界の壁を越えた向こう側に行ったのです。 
完全に信じたかどうかは問題ではありません。 
大切なのは、一歩踏み出したかどうかなのです。 
  
ペテロがその結果見たものは、それはすさまじい大漁でした! 
飯の種にならないと思っていたイエスさまの言葉が、予想をはるかに超えた飯の種になったのです。 
  
私たちはここから学びましょう。 
クリスチャンはアクティブであっていいのです。 
冒険心いっぱいでいいのです。 
クリスチャンの陰気なイメージを吹き飛ばすような生き様を見せようではありませんか。 
でもそれは、自分勝手な暴走であってはいけません。 
自分のひとりよがりの突進ではないのです。 
ポイントは、「でもおことばどおり」(5節)です。 
信じ切れなくてもいい、でも、おことばどおりにしたとき、あなたの人生に奇蹟が起こるのです。 
しかもそれは、予想もできないような祝福と喜びの奇蹟です。 
そう、祝福が大きすぎて、船が沈みそうになるほど、私たちが受けきれないほどです。 
  
そして、ペテロの人生は、まったく変えられました。 
それは、おことばどおりに一歩を踏み出したから。  
イエスさまは、あなたにも話しかけています。 
「あなたの壁の向こう側に行こう。」 
それは、予想できないほどの祝福の入り口です。 
ハレルヤの人生への門です。 
さあ、イエスさまの言葉と一緒に、第一歩を踏み出しましょう。 
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