アドベント2007 02
『たとい自分の心が責めても』 第1ヨハネ 3:13-24
木曜日の夜に、長男はれるの学校のコンサートが夜8時くらいまでありました。
家まで帰ってくる途中、クリスマスの電飾が、街のあちこち、ベランダやフェンスに光っていて、とてもきれいなものでした。
すっかり街はクリスマスの装いです。
クリスマスの電飾は、夜はとてもきれいです。
しかし、昼に見ると、季節感こそ感じますが、夜ほどきれいではありません。
電気がついていないからです。
また、電気がついていたとしても、昼間では美しく見えません。
今週は、20節を中心に御言葉を開きたいと思います。
「たとい自分の心が責めてもです。
なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」(20節)
イエスさまを救い主として受け入れると、神様の子どもとされます。
しかし、クリスチャンになっても、神様の子の特権を得ても、私たちの心は自分を責めることがあるのです。
「お前は本当に神様の子にふさわしいと言えるのか!」
「お前は、神様の子どもとしての資格不十分だ!」
不完全で未熟な私たちは、失敗し、また自らの醜さを発見し、落ち込むこともあります。
「・・・しようと思ったのに、・・・・・。俺はだめだなぁ。」
これは誰でも経験することではないでしょうか。
このような自分の心の責めから、脱出する方法があります。
それは、「どうせそんなもんなんだから、しょうがない」とあきらめて、自分に言い聞かせることです。
「誰でも醜さを持っているんだから、気にしない。」と、醜さに対して、鈍感になることです。
そうしたら、心の責めはなくなります。
しかし、そこにイエスさまの愛の入り込む余地はありません。
甘えだけがのこるのです。
聖書はそうは言っていません。
「なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」(20節)
あなたのすべてを知っている神様は、その弱さ・醜さを知った上で、愛してくれるのです。
何もかも知った上で愛してくれる、隠しておかなくていい、なんという安心感でしょう。
不完全な人間が、不完全なゆえに、もっとも求めている大きな愛が、ここにあるのです。
自分の心の責めから、目をそらす必要はありません。
自分の心の闇を見つめ、闇を認めていいのです。
なぜなら、神様は全部ご存知だからです。
クリスマスの電飾が夜にこそ輝くように、イエスさまの輝きが闇の中にこそ光るのです。
イエスさまはそのために来たのです。
「わたしは光として世に来ました。
わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(ヨハネ12:46)
燦然と輝く星を、あなたの心の闇にお迎えするのです。
夜に停電になると、部屋は真っ暗になります。
全くの闇です。
しかし、小さなローソクが1本ともったなら、そこは闇の世界ではなくなります。
ローソクの光がある場所になるのです。
闇の中に一点の光があるなら、それはもう闇ではないのです。
停電のときの小さなロウソクでさえ、闇を打ち消すことができるのです。
そして、イエスさまは「あなたのための光」なのです。
小さな信仰でも、不完全な信仰でもかまいません。
たった一点の光、それは闇に打ち勝つのです。
そして、この光は、イエスさまのいのちある光なのです。
小さいままではなく、世界一の電飾よりも明るく、あなたの心を照らします。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4,5)
あなたの心の闇から、目をそむける必要はありません。
あなたの光が、いま、輝いているからです。
たといあなたの心が責めても、この愛の輝きは、くすむことがありません。
さあ、あなたの中に、思いっきり輝かせましょう。
あなたが闇に立ち向かうなら、クリスマスの輝きは、あなたのものなのです。
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