11   試練の中で (ラブレター01 2006.03.11)
新シリーズ あなたへのラブレター 01
『試練の中で』 第1コリント 10:13
あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
 
今週から、新しいシリーズ「あなたへのラブレター」が始まります。
これまで、サンパウロ・ゴスペルハウスの土曜礼拝では、創世記(旧約聖書)の連続講解説教、福音書(新約聖書)からのシリーズ説教をしてきましたが、今週から新たに新約聖書の手紙を開いていくことになります。
それぞれが、愛あふれる手紙なので、ラブレターというわけです。
 
内容的にいうと、創世記では「神様の愛」を中心に、福音書では「イエスさまの十字架」を中心にすえて焦点を当ててきました。
このシリーズでは、神様の愛とイエスさまの十字架を踏まえたうえで、キリスト者としての生き方にも焦点が当たっていきます。
ですから、このシリーズのサブタイトルは「キリスト者の冒険」としました。
 
新シリーズの第1回目の聖書箇所は、第1コリント10:13です。
もう読んでいただくだけで、力と励ましを受けてしまう箇所ですね。
この箇所を聖書で読んで、また、友人などからこの言葉を贈られて、どれだけ多くの人が励まされ、試練から立ち直ってきたことでしょうか。
キリスト者はもとより、神様を信じていない人でさえ、この言葉からは大きな慰めを受けることでしょう。
 
この箇所のポイントは簡単です。
・耐えられない試練はない。
・救いの道が備えられている。
 
今回は、この箇所から、さらに2つの事柄を明らかにしていこうと思います。
1つ目は、「試練は神様からの罰ではない。」ということです。
もしも試練が神様からの罰であったら、この箇所に書いてあるように、神様は真実な方ですから、徹底的に罰を与えるはずです。
真実の罰ですから、耐えられなくないような手加減もなければ、脱出の道を備えることもないでしょう。
しかし、ここで神様はそうしていません。
ということは、試練は神様からの罰ではないのです。
 
真正直な信仰者の人が試練にあうと、「私に信仰が足りないから、神様は試練を与えたんだ。私がいけなかったんだ。」と考えがちです。
しかし、試練は神様からの罰ではありません。
試練の中で、自分自身を責める必要はないのです。
試練は、神様があなたに与えたチャンスです。
神様を知るために、自分自身を知るために、神様があなたに与えたチャンスなのです。
 
2つ目は、「神様は決して見捨てない。」ということです。
試練の中で、私たちはもがき苦しみます。
そこで、神様の備えてくれた脱出に道に気がつく場合はいいのですが、気がつかないと、もっとどん底へ落ちてしまいます。
しかし、神様はそこへも脱出の道を備えてくださるのです。
そこでまた、脱出の道を見つけられなくても、もっとどん底へ落ちていったとしても、そこへも脱出の道を備えてくださいます。
決して見捨てない神様なのです。
 
神様は人間を見捨てませんが、私たち人間は神様を見捨てることがよくあります。
見捨てるよりも、もっとひどい仕打ち、存在の否定すらするのです。
想像してください。
あなたの周りの人が、あなたが存在していることすら認めないとしたら、どんなに悲しいことでしょう。
しかし、私たちは神様に対してそうしてきたのです(少なくとも私はキリスト者になるまでそうしてきました)。
しかし、神様はそんな私たちに復讐しないのです。
神様は、因果応報という論理で、私たちを突き放すことはしないのです。
 
これらの事柄の証拠がイエスさまです。
イエスさまは試練のどん底まで道を備えに来てくださる方です。
家畜小屋という最悪の環境の中で生まれ、悪魔からの試練にあい、地上の生涯の最後には、ののしられて十字架にかかりました。
十字架にかかる者は、神様から呪われた者です。
イエスさまは、呪いの中でもがき苦しんでいる私たちのために、自ら呪われた者となって、救いの道を与えてくれたのです。
そう、イエスさま自身が救いの道なのです。
 
そして、この御言葉の約束をしてくれたのは神様です。
 
以前、エストラというサンパウロのの大手スーパーのチラシを見たら、バリカンが安売りになっていました。
そこで、チラシに書いてある期間の最初の日にエストラに行きました。
すると、そのバリカンが置いていないのです。
店員に聞くと、「明日は来る。」とのことでした。
次の日に行ったら、また、ないのです。
店員の答えは、「明日は来る。」でした。
それで私は、当てにならないことをあらわす、「エストラの明日」ということわざを作りました。
よく似た意味のことわざでは、「紺屋のあさって」というものが日本にもあるそうです。
 
しかし、ここで約束しているのは神様です。
エストラや紺屋のように当てにならないものではありません。
まったく当てにしていい方です。
約束を信じて、希望を持っていきましょう。
試練の中で、自分を責めることなく、イキイキと生きましょう。
これがキリスト者の生き方です。
私たちは神様の奴隷ではありません。
神様の宝物として、イキイキと生きましょう。そう生きていいのです。
 
神様は、決してあなたを見捨てません。
あなたは、神様に愛されている、大切な宝物なのです。
あなたがどんな状況にあっても、神様の愛は変わることがありません。
さあ、目を上げてください。
神様の愛の確実な証拠、イエスさまの十字架は、あなたの目の前にあります。
 
あなたのためにお祈りしています。



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