13   主のみこころなら (ラブレター02 2006.03.18)のおまけ
「わたしはローマ人への手紙のパウロを是非とも理解したいと熱望していた。
それまでにわたしの理解を妨げていたのは、熱意の不足ではなく、第1章のたった1句《神の義は福音の内に啓示される》であった。
というのは、《神の義》ということばを私は憎んでいたからである。
 
私は全ての博士たちの習慣と解釈に則って、この言葉を哲学的に、いわゆる形式的または積極的な義、すなわち、この義によって神は正しいのであり、それ故に罪人と不義なる者が罰せられるところの義であると理解するように教えられてきた。
しかし私は、自分がどんなに非の打ち所のない修道生活をしても、神の前では良心の咎を持つ罪人であり、私の十分な善業によってもこの罪を償えるとは思えないと感じていた。
 
だから、私は罪を罰する正義の神を愛せず、憎んでいたのである。私はそういう神に愕然として、冒涜ではないにしても、やはり恐るべきことをつぶやいた。
すなわち原罪によって永遠に呪われた哀れな罪人は、すでに十戒によってあらゆる不幸を背負わされているのに、それでもまだ足りず、神はさらに福音を通して苦しみの上になお新しい苦しみを追加し、福音を通して神の正義と怒りを我々に科すのか。
 
このように良心はちぢに乱れて、気も狂わんばかりであった。
この失意の最中でも私は、聖パウロが言ったことの意味をどうしても知りたいと願って、ローマ人への手紙のあの箇所を問い続けた。
 
こうして昼も夜も考え続けた末に、ついに私は神のあわれみによって次の箇所との関連に気づいたのである。
━━ 《神の義は、『義人は信仰によって生きる』と記されているとおりである》
そこで私は《神の義》とはこれによって義人が神の恵みにより《義人として》生きる、すなわち、信仰によって生きるところの義であると理解し始めた。
 
そしてこの箇所は福音書を通して神の義が現われ、この義によってあわれみ深い神は、義人は信仰によって生きると書き記されている通りに、信仰によって我々を義とするという意味であると、私は理解した。
その時、私は、私が本当に新たに生まれ、開かれた門を通って天国へ入ったように感じた。
直ちに私の目には聖書全体が新しい光を帯びて立ち現われた。」
 
(マルチン・ルター:ラテン語論文集第1巻 序文 1545年) 



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