15   エルサレムへ (イースター01 2006.04.01)
イースターに向けて 01
『エルサレムへ』 マタイ 20:17-28
 
今週から、イースターに向けてのメッセージをしていこうと思います。
今週の聖書箇所は、イエスさまの第3番目の受難予告の箇所です。
受難予告というと、十字架にかかって死ぬということだけを感じとってしまいます。
しかし、イエスさまは十字架の死とともに、その後の復活も予告しているのです。
ですから、本当は、「受難と復活の予告」ということになります。
 
いずれにしても、今回の予告は過去2回のものとは緊張感・深刻度が違います。
なぜなら、過去2回がエルサレムからかなり離れた場所であったのに対して、今回は、エルサレムに向かう途上なのです。
つまり、エルサレムという受刑場に向かう途中の受難予告なのです。
 
その内容を見てみましょう。(18-19節)
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。
人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。
彼らは人の子を死刑に定めます。
そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。
しかし、人の子は三日目によみがえります。」
 
かいつまむと、「引き渡され、死刑に定められ、あざけられ、むち打たれ、異邦人に引き渡され、十字架につけられる。」そして、「三日目によみがえる。」です。
 
引き渡されるとは、味方に裏切られるということです。
異邦人に引き渡されるとは、民族の誇りを剥奪されることです。
十字架につけられるとは、神様の呪いを受けることになり、選ばれたユダヤの民からの排除を意味します。
つまり、イエスさまは、精神的・肉体的・宗教的・民族的すべての苦痛を受けると予告したのです。
いえ、ただの苦痛と言うだけでは言い足りないでしょう。
精神的・肉体的・宗教的・民族的すべての死を受けると言ったのです。
そして、その先にある復活をイエスさまは予告したのです。
 
そこまでして、いったい何のための受難なのでしょうか。
イエスさまは、簡潔に答えています。
「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」(28節)
 
罪のために神様と断絶してしまっている人間を、神様に引き戻すための代価として御自身のいのちを支払ったのです。
つまり、罪人を神様のもとに戻し、神様の愛の中に永遠に住まわせるためです。
十字架の向こう側の、復活のいのちの世界、永遠の愛の世界への道となるために、イエスさまは十字架で死んで、そして復活したのです。
その動機は、『愛』です。
いのちを捨てるほど徹底的に、その人に仕える愛です。
徹底的にささげる愛です。
 
イエスさまの、この愛の予告に対して、弟子たちはどうしたでしょうか。
弟子たちは、・・・残念ながら理解できていませんでした。
ゼベダイの子たち(ヤコブとヨハネ・12弟子のうちの2人)は、ただ行動に表しただけです。
ちゃっかり者が、抜け駆けしたのです。
ほかの10人も同じ気持ちだったのでしょう。
だから彼らは、抜け駆けした2人に怒ったのです。
 
彼らは、現実に見えるもの(力・名誉など)にとらわれています。
神様の国を希望する気持ちはあるが、自分の思いから出られないでいるのです。
十字架も、その向こう側の復活の希望も、正しくは見えていないし、見ていないのです。
 
しかし現代のクリスチャンも同じではないでしょうか。
イエスさまはもう2000年前に、私たちの罪を赦すために十字架にかかりました。
神様から離れていた私たちを、神様のもとに戻すための贖いの代価になったのです。
はっきりと聖書に書いてありますから、私たちは知っているのです。
 
ですが、この世に生きている中で、私たちは勘違いしていないでしょうか。
イエスさまを自分の願望を達成するための道具にしていないでしょうか。
イエスさまは、自分の仕事を支えてくれるパートナー。
イエスさまは、どんな病気でも治す名医。
イエスさまは、信者を増やすための神様。
イエスさまは、教会を大きくするための神様。
クリスチャンが願っているリバイバルを起こすための神様。
 
イエスさまは全能の神様ですから、以上の事柄は、もちろんすべて可能です。
しかし、私たちは、イエスさまの本当の目的を見失ってはいないでしょうか。
自分の思いに縛られて、イエスさまをそこに利用していないでしょうか。
 
イエスさまは、理解できていない弟子たちに対して、否定はしませんでした。
それは、イエスさまが、彼らの無知もイエスさまに対する純粋さも知っていたからです。
しかし、イエスさまは喜んでもいないのです。
 
たとえば、少年にこう質問したとしましょう。
「あなたの親はどんな方ですか?」
「僕の親は、僕のための掃除と洗濯と炊事をする人です。」
こんな答えが返ってきたら、悲しくなりませんか?
 
確かに、掃除も洗濯も炊事も親の仕事の1つです。
しかし、それは親の本来の目的ではありません。
親は、神様から預けられた宝物として、子供を愛し、育て、守り、導き、励まします。
もちろん、他にもたくさんの大切なことがあるでしょう。
 
もし子供が理解してくれなかったとしても、親はその役割を放り出しません。
いえ、子供がそれなりに大きくなるまでは、わかってもらえないことの方が多いでしょう。
私などは、実際に親になってみて、はじめて親の大変さがわかりました。
そう、親はわかってもらえなくても、子供を愛するのです。
そうは言っても、わかってもらえるんなら、わかってもらいたいのも事実です。
子供と話したいのです。
そして、わかってもらえたら、本当に嬉しいのです。
 
私たちが、イエスさまの本当の目的を見失っていたら、どうしたらいいでしょう。
私たちの無知のゆえに、イエスさまが私たちを見捨てることはありません。
でも、イエスさまはわかってほしいのです。
私たちと話したいのです。
そして、わかってもらえたら、本当に嬉しいのです。
 
私たちは、イエスさまに聞きましょう。
いっぱいお話しましょう。
どうしたらいいかわからなくても大丈夫です。
聖霊様があなたを助けてくれます。
イエスさまのいのちがけの愛を、からだいっぱいに浴びましょう。
そして、十字架の向こう側の復活のいのち・愛のいのちの中に生きましょう。
神様に愛されている大切な宝物として、イキイキと、堂々と。
 
あなたにとって、いま、イエスさまは何ですか?
あなたの願望をかなえるための力(道具)ですか。
なんでもしてくれる、スーパーマンですか。
イエスさまは、あなたに与えられた神様の愛です。
神様からのラブレターです。
喜んで受け取って、十字架の向こう側に行きましょう。
愛のいのちの中で、喜んで、輝いて生きましょう。
 
あなたのためにお祈りしています。



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