イースターに向けて 03
『完了した』 ヨハネ 19:28-30
イースターおめでとうございます。
本日の第1礼拝の聖書箇所は、イエスさまの十字架です。
イエスさまは、十字架上で7つの言葉を話されました。
時間の経過順に書いてみますと、次の通りになります。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34
「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」ヨハネ19:26
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ23:43
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」マルコ15:34
「わたしは渇く。」ヨハネ19:28
「完了した。」ヨハネ19:30
「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」ルカ23:46
昨年のイースター礼拝では、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」を取り上げましたが、今年は、「完了した。」です。
私がイエスさまを信じて間もないころ、青年たちの聖書研究会に誘われました。
そこで、『十字架上で、イエスさまは痛みを感じたのか?』という話題になりました。
私は、「感じた」と思ったのですが、「全知全能の神様だから」とか、「十字架上でさまざまな働きをしたから」という理由で、「感じなかった、あるいは痛みは軽減されていた」という結論になりました。
帰り道、私は神様に、「本当に痛くなかったの? 痛かったでしょ。」と問い続けました。
もし、痛みから逃げるような神様なら、私たちの心の痛みをわかってくれるはずがないと思ったからです。
神様は答えてくれました。
「痛かったよ。」
そうです。朝9時から午後3時まで、イエスさまは十字架上で地獄のような苦しみの6時間を味わったのです。
イエスさまは、前日、弟子たちに裏切られ、逮捕され、徹夜で裁判を受け、ののしられ、あざけられ、むち打たれ、十字架につけられました。
十字架につくというのは、神様から呪われた者になるということです。
つまり、私たちの肉体的な痛み、精神的な(心の)痛み、霊的な(たましいの)痛み、すべてを背負ったキリスト(救い主)がイエスさまなのです。
しかし、この痛み全てをイエスさまは真正面から受け止められました。
ですから、十字架につくときに与えられた没薬を混ぜたぶどう酒を拒否しています。(マルコ15:23)
これには、痛みを和らげる作用があるからです。
痛みにもがき苦しむ私たちは、痛みから逃げる救い主では救えないのです。
痛みから逃げるなら、私たちを裁くことはできても、救うことはできないのです。
そして、すべてが完了しました。
肉体的な痛みも、精神的な痛みも、霊的な痛みも、すべてイエスさまに背負われたのです。
すべてを背負ったぼろぼろの救い主。
私たちの痛みや弱さや憎しみ、悲しみを全て受け止めてくれる救い主。
受け止めるだけでなく、赦し、愛してくれる救い主。
しかし、彼はまた、勝利の救い主です。
すべてを背負い切ったからです。
「完了した」
これはただの終了宣言ではありません。
本当の救い主の勝利宣言です!
もう何も、私たちを神様の愛から切り離すことはできません。
十字架上のイエスさまにすべて背負われたからです。
私たちは、もう、何にもとらわれなくていいのです。
すべてはイエスさまの十字架に背負われたんですから。
その後、イエスさまの体は、亜麻布にくるまれて墓の中へおさめられました。
すべての痛みとともにです。
私たちの痛みも苦しみも、すでにくるまれて葬られています。
高らかに勝利の宣言をしましょう。
「完了した!」
悲しみ、憎しみの中のあなたを、神様は見捨てません。
痛み、苦しんでいるあなたを、神様は見捨てません。
十字架上で、イエスさまは、すべてを背負われました。
そして、痛みを超えて、高らかに勝利宣言をされたのです。
あなたを苦しめていたものは、十字架上で処理されました。
そして、亜麻布で包まれて墓の中です。
そう、「完了した」のです。
あなたのためにお祈りしています。
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