19   テベリヤの湖畔 (復活のイエスさま01 2006.04.22 第一礼拝)
復活のイエスさま 01 
『テベリヤの湖畔』 ヨハネ 21:1-14
 
今週は、第1礼拝と第2礼拝で、復活したイエスさまを読んでいこうと思います。
このテベリヤの湖畔での出来事は、2つの事柄を私たちに教えてくれます。
 
まず、1つ目のポイントは、「イエスさまの復活は真実」です。
わたしが日本にいた頃のことです。
本屋さんのキリスト教関係のコーナーに行って、普段見かけない本を見つけました。
それでパラパラと立ち読みしてみると、「復活は弟子たちの幻想」「弟子たちの願望が、同じような幻を見せた」との記述がありました。
 
もちろん、それは間違えた解釈なのですが、ヨハネが福音書を書いた頃も、それと同じような考えを持つクリスチャン(自称クリスチャン)がいたのです。
彼らは自分の知識ではかれる範囲で神様を解釈しようとしたのです。
自分たちの常識の中に神様を押し込めようとしたのです。
不完全な人間の知識に、完全なる神様は入りきりません。
 
それでヨハネは、彼らに対してはっきりと示したのです。
「イエスさまは本当に、肉体を持ってよみがえった。
それは霊でも幻想でもない。
心で見ただけではなく、イエスさまは実際に料理し、私たちと一緒に食事をしたんだ。
私は12弟子の最後の生き残りとして、はっきりと証言する。」
 
もっと大切なのは、2つ目のポイント、「イエスさまの愛」です。
イエスさまは夜通し働いて獲物のなかった漁師(弟子たち)に声をかけました。
「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」(5節)
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」(6節)
その言葉は、叱咤激励ではなく、いたわりの言葉かけ、愛の言葉かけでした。
そして、弟子たちがイエスさまの言葉どおりに網をおろすと、153匹もの大きな魚がとれたのです。
これは、漁師の技量や網の能力による大漁ではありません。
イエスさまの愛の言葉による大漁です。
 
また、当時、魚の種類は全部で153種類といわれていました。
ですから、153匹の魚というのは、すべての種類の魚を連想させます。
これは、すべての人をあらわします。
イエスさまの愛は、すべての人を包むのです。
苦しんでいる人も悲しんでいる人も、富んでいる人も貧しい人もです。
 
ヨハネ(愛された弟子)は、いつもイエスさまのことを考えていたのでしょう。
今回も一番初めに気が付きます。
また、ペテロは、いつも通りに、突出した行動力を見せています。
他の弟子たちは、特別なことはなく、網を引いて舟をこいでいます。
しかし、イエスさまの愛は、その誰ももらさないのです。
イエスさまは、私たちの「その人らしさ」を尊重してくださる方なのです。
 
しかも、すべてを包み込んだ上でなお、その網は破れませんでした。
それは、すべての人を受け入れても、裂けることのない愛です。
すべての悲しみ苦しみを包んでも、裂けることのない愛なのです。
これが、イエスさまの愛なのです。
 
そして、この愛は誰のためでもない、あなたのための愛です。
決して裂けることのない愛に包まれて、安らぎましょう。
愛の中で、自分らしく生きていきましょう。
 
 
イエスさまの愛が、あなたを包みます。
あなたの悲しみも、痛みも、苦しみもすべて。
何があっても、あなたはその愛からもれることはありません。
復活のイエスさまの愛は、何があっても裂けない網です。
愛の網の中で安らぎましょう。
この愛は、あなたのゆりかごです。
 
あなたのためにお祈りしています。



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