21   あわれみといけにえ (話そう36 2006.04.29 第一礼拝)
イエス様と話そう36
『あわれみといけにえ』マタイ 12:1-8
 
安息日は、モーセが神様から与えられた十戒の4番目にあたる、大切な律法です。
それは、神様が創造のわざを7日目に休まれ、その日を聖別したことに由来しています。
その日に仕事をするものは、死刑と定められていました。
 
ここで、イエスさまの弟子たちが、麦の穂をつんで食べました。
これは、「刈り入れ」と「脱穀」と「食事の準備」という仕事をしたことになります。
明らかに、安息日の律法に対する違反です。
それで、パリサイ人たちはイエスさまに詰め寄ったのです。
 
安息日は、神様を礼拝するための安息の日です。
しかし、当時のユダヤでは、禁止される事項を細かく決めて、それを守ることが中心になっていました。
禁止事項は多岐に及び、39の禁止される事項にそれぞれ6つの細かい決まりごとが決められ、39×6で234もの禁止事項ができていました。
これでは、神様に心を向けるどころではありません。
禁止事項を守るための安息日になってしまっていました。
本末転倒です。
 
イエスさまはダビデの例や、祭司の例を挙げて答えました。
そして、答えの中心はここです。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』(7節)
これは、旧約聖書ホセア書6:6の引用です。
わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。
 
ここで、いけにえは宗教儀式を表し、あわれみは愛と赦しを表します。
ですから、言い換えると、『わたしは愛と赦しは好むが、宗教儀式は好まない。』ということになります。
 
この言葉を、人間の立場を中心に見ると、「宗教儀式よりも、愛と赦し(十字架の本質)が大切である」ということになります。
キリスト教は、宗教儀式をすることではなく、神様の愛と赦しを受けることが大切であるということです。
キリスト者は、宗教儀式や組織に縛られるのではなく、神様の愛と赦しによって自由を得るのです。
 
また、神様の立場を中心に見ると、「宗教儀式のための神様ではなく、愛と赦しを与える神様である」ということになります。
ただ祀り上げて、祭壇に飾るための神様ではないのです。
神様は、生きておられる方です。
そして、ただ生きているだけでなく、私たちを愛して赦してくださる方なのです。
この神様によって、私たちは完全な自由を得るのです。
 
人間の存在意義も、人間にとっての神様の存在意義も、この言葉にかかっているといって過言ではないでしょう。
 
また、同じ箇所を記したマルコの福音書にはこういう記事があります。
また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」(マルコ2:27-28)
神様から与えられた大切な律法も、人を奴隷とすることはできないのです。
 
そうです。
私たちは神様に愛されるために生まれてきたのです。
その愛と赦しを伝えるのが、福音です。
そして、受け取った愛を持って神様を愛し、友を愛し赦して生きるのです。
私たちは神様名義の愛と赦しのクレジットカードを受け取りました。
カードの利用限度額は「無限」です。
 
サンパウロ・ゴスペルハウスの礼拝には宗教儀式はありません。
毎週、礼拝ごとに聖餐式をします。
もちろん、賛美も、説教も、祈りもします。
しかし、そのどれも儀式ではありません。
儀式であってはならないのです。
中心は「愛と赦し」です。
それは、神様から私たちへのプレゼントです。
そして、私たちが運んでいくプレゼントです。
 
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』
儀式の奴隷になるのではなく、愛と赦しの受取人兼配達人になりましょう。
 
 
神様の愛を、儀式の中に閉じ込めないでください。
かけがえのないあなたを、儀式の奴隷にしないでください。
どんな儀式よりも、どんな組織よりも、あなたはもっと素晴らしいのです。
神様の愛と赦しによって、完全に自由になりましょう。
そして、その愛の配達人とされましょう。
 
あなたのためにお祈りしています。



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