あなたへのラブレター 04 
『従順』 ピリピ2:1-11 
  
私がブラジルに着いて半年くらい経ったときの事です。 
日系人教会に招かれて、パラナ州への出張伝道がありました。 
そこで、経歴などの質問を受け、ハワイの中野雄一郎先生の教会で信仰を持ち、山形県米沢の田中先生の教会に集い、JTJ宣教神学校で学んだことを伝えました。 
  
すると、 
「中野先生のお弟子さんなら・・・・」 
「田中先生のお弟子さんなら・・・・」 
「岸先生(JTJ学長)のお弟子さんなら・・・・」 
と、異口同音に言われ、私のような拙い新米伝道師の話を、きちんと聞いてくださりました。 
偉大な先輩牧師の方々に感謝するとともに、心の中に違和感を覚えていました。 
  
また、協力伝道師として教会にご奉仕させていただく中で、意見が合わず引っかかることがあります。 
それは、「教会の弟子訓練」についてです。 
特に引っかかってしまうのが、「従順」という言葉です。 
彼らが与えようとしている従順は、教会に対しての従順、牧師に対しての従順にかたよっているように感じるのです。 
そして、「訓練を与える側=支配する人。受ける側=奴隷。」のような印象を受けて仕方がないのです。 
私たちに従順は必要です。 
しかし、いったい何に対しての従順が必要なのでしょうか。 
  
ピリピ人への手紙は、パウロがピリピの教会にあてた手紙です。 
今週の聖書箇所では、ピリピの教会には、一致が必要な状態であったことがうかがわれます。 
ここから、従順について学んでいきたいと思います。 
  
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(8節) 
ここには、イエスさまの従順が書いてあります。 
神様の愛による救いのため、イエスさまは徹底的に従順でありました。 
罪深い私たちのために、救いの道を完成するため、十字架の死に至るまで従順だったのです。 
そして、イエスさまの従順によって救いは完成しました。 
神様の大切な宝物である私たちは、神様のもとに取り戻されたのです。 
  
なぜ、イエスさまは徹底的に従順になる必要があったのでしょうか。 
それは人間には完全な従順が不可能だからです。 
もし、私たちの従順が完全であったなら、イエスさまは十字架にかかる必要はなかったのです。 
不十分な私たちの従順では(知識や技術でも)、救いを完成できないのです。 
  
では、イエスさまの従順の目的は何でしょうか。 
それは、 
すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(11節) 
すべての人が、「イエス・キリストは主である。」と告白するということは、すべての人がイエスさまの弟子であると宣言することです。 
イエスさまの愛と従順によって、それは十字架上で示されたものですが、私たちは一致できるのです。 
ここに、パウロが期待する一致があるのです。 
  
サンパウロ・ゴスペルハウスには、ゴスペルハウスの弟子はいません。 
もちろん、伝道師である私の弟子もいません。 
ここにいるのは、イエスさまの弟子だけです。 
ですから、私たちはみな友なのです。 
礼拝に出席している人も、メールやインターネットでこのメッセージを受けている人も、みんな同じイエスさまの弟子。 
いえ、世界中のすべての人が、イエスさまの弟子なのです。 
そして、イエスさまの従順によって、私たちは一致したひとつのからだなのです。 
  
私たちに要求される従順があります。 
「イエス・キリストは主である。」 
この宣言、この事実に従順でありましょう。 
そして、イエスさまが従順によって示してくれた愛によって、ひとつになりましょう。 
  
  
あなたは、イエスさまの弟子です。 
私も、イエスさまの弟子です。 
イエスさまの従順によって、わたしたちは永遠の愛を得ました。 
イエスさまの従順によって、私たちはひとつになります。 
「イエス・キリストは主である。」 
この事実を、心に深く刻みましょう。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
 |