イエスさまと話そう37
『ナインのやもめ』ルカ 7:11-17
皆さんにとって、一番の悲しみは何ですか。
耐え切れなくなるほどの悲しみ、自分が自分でいられなくなるほどの悲しみは何ですか。
何を失ったときに、そのような悲しみを感じますか?
お金ですか? 仕事ですか? 信用ですか? 名誉ですか?
私は親バカなのか、一番の悲しみは、「子どものいのちを失うこと」です。
もし、現代にクリスチャン狩りがあり、信仰者は死ねと言われるなら、私は殉教を選べます。
しかし、子どものいのちについては、情けないほどに弱いのです。
ですから、はれるやタリタが熱を出して苦しそうな時には、神様にこう脅しをかけてしまうのです。
「神様、あなたは耐え切れない悲しみを私たちに与えないはずです。
もし、この子の命が奪われたなら、私は耐え切れません。
もう伝道者として立っていられませんから、ブラジルを去ります。
信仰者として証しする力すら無くなります。いいですか!」
まったく傲慢な祈りなのですが、本心です。
さて、今回の聖書箇所のやもめにとって、息子は自分自身の生命・生涯そのものでした。
夫に先立たれ、男尊女卑の時代環境の中、唯一のよりどころはひとり息子だったのです。
自分自身を証明できる唯一の存在です。
たった一つの愛の対象です。
そのひとり息子の青年が死んだのです。
彼女にとってこれ以上の悲しみはありません。
ある有名な聖書注解者は、「青年は仮死状態だった」と言いました。
しかし、彼は間違えています。
このやもめの青年に対する愛を理解していません。
医学が現代ほど発達していなかった2000年前のことです。
彼女がすぐに息子の死を受け入れたはずがありません。
私だったら、今だって、機械の判定する死を受け入れられません。
きっと、腐り始めるまで、はれるやタリタの死体を抱き続けていることでしょう。
いわんや、医療測定機器もない2000年前のことです。
彼女は、はっきりと死んだとわかるまで、葬式はしなかったはずです。
私たちにとって、死は絶対の絶望です。
いえ、死んで責任を取ることが当たり前に行なわれている日本人の中では、死は絶望より向こう側の、完全な終わりとも言えましょう。
主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。(13節)
この「かわいそう」という言葉は、はらわたの底から感じる最大級の悲しみを意味します。
日本語でも断腸の思いというのがありますね。
ここで、先週の第2礼拝のメッセージを思い出してください。
喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。(ローマ12:15)
イエスさまは、この言葉の実践者だったはずです。
ですから、イエスさまはやもめといっしょに泣かなければならなかったのです。
しかし、イエスさまはこういわれました。
「泣かなくてもよい。」
そこには聖書の言葉、イエスさまの言葉、神様の言葉の大原則があります。
それは、「イエスさま(神様)は命令しっぱなしではない。」ということです。
イエスさまだけの解決があるのです。
私たちにとって、死は絶望の果て、どうしても越えられない壁です。
しかし、今週の一言にあるように、「人の常識は、神の前には無意味」なのです。
イエスさまにとっては、死は越えられない壁ではないのです。
そして近寄って棺に手をかけられると(14節)
棺、それは、死の象徴です。死の具体的なあらわれです。
いのちの世界の向こう側です。
それをイエスさまはつかんだのです。
イエスさまは、死の壁を越えて、向こう側に手を伸ばしたのです。
死、それは絶望の果て、完全なる終わりでした。
しかし、その死の向こう側でも、イエスさまの愛は途絶えないのです。
イエスさまは言われました。
「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」(14節)
棺をつかむだけなら、また、声をかけるだけなら、私でも出来そうです。
しかし、イエスさまは、ただの慰めだけをするのではなく、新しいいのちを与えるのです。
死の壁の向こう側に手を伸ばし、いのちの世界に引き戻すことが出来る方なのです。
いのちの神様、生きている神様です。
このようないのちあふれる神様、エネルギーあふれる神様は、私たちの知識や教理に閉じ込められる方ではありません。
もうすぐ私の第3子として、ホサナが生まれます。
(注:メッセージの次の日に生まれました)
しかし、妊娠初期に彼は一度死んでいるのです。
妊娠初期に、妻は子宮から出血をしました。
ブラジルに来る前に、一度流産していることもあり、本当に心配でした。
そして、おなかのホサナのために祈っていると、神様が教えてくださいました。
「ホサナは確かに死んだ。しかし、私はこの子をもう一度生かす。
この子は新しいいのちを受けて生きる。」
私は妻にすぐに話しましたが、そのとき、彼女は受け入れられませんでした。
しかし昨日、「ホサナって1回死んでたよね」と話すと、「そうだね」と答えてくれました。
あの当時は、死んだことが受け入れがたいことだったのです。
しかし、確かに神様はもう一度いのちを与えてくれたのです。
この神様の愛は、子供をなくした親だけがわかるのではありません。
すべての人の絶望の向こうに、イエスさまの愛はまだあるのです。
ですから、私たちの絶望は、絶望のままでは終わりません。
私たちは弱いですが、イエスさまの愛は死の力・死の壁をもこえて強いからです。
イエスさまの愛は、絶望の果てにいるあなたを見捨てないのです。
あなたの人生に、深い絶望がやってくるとき、
あなたの人生に、耐えられないような悲しみがあるとき、
あなたは一人ぼっちではありません。
深い絶望の果ても、完全なる終わりと思えるときも、
そこに、イエスさまの愛はあります。
あなたのための愛が、そこにあります。
すべてを超えて、光り輝くいのちの愛が、確かに、あるのです。
あなたのためにお祈りしています。
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