シリーズ メッセンジャーはイエスさま 09 
『心に満ちているもの』 ルカ 6:43-45 
  
ルカによる福音書第6章の17〜49節は、「平地の説教」と言われている箇所です。 
今週は、その平地の説教の最終盤でのイエスさまのメッセージを取り上げたいと思います。 
43〜45節は、1つのことを語っています。 
それは、“内側に満ちているものが外に現れる”ということです。 
  
ちょうど昨夜、私は夕食後のデザートにブドウを食べました。 
一房のブドウを家族4人で分けたので、ちょっと食べたりない感じでした。 
その後、この聖書箇所を読み返しているときに、気がついたのです。 
『ブドウは甘い。その甘さは、ブドウの粒自身が作り出したものではない。 
甘さは、ブドウの木が作り出したもので、枝を通り、房の軸を通ってブドウの一粒一粒に運ばれたのだ。 
となれば、房の軸も甘いはず!』 
  
こうして、私は深夜に台所へ降りていき、ゴミ箱からブドウの房の軸を拾って洗い、かじってみました。 
どんな味がしたと思いますか。 
それは、すっぱくて苦い味でした! 
  
しかし、確かに言えることは、ブドウの実の甘さは、ブドウの木に満ちていた甘さなのです。 
素人の私にはわからなかったけれでも、確かに甘さは木に満ちていたはずです。 
満ちていなければ、ブドウの木は1年で枯れてしまいます。 
何年も続けて実を作り出すことは出来ないのです。 
ですから、ブドウやイチジクのような甘みを持った実を、いばらや野ばらが実らせることは出来ないのとイエスさまは言っているのです。 
  
そして、イエスさまは私たち人間も同じだと言っているのです。 
私たちの実らせる実は、言葉です。 
そして、それに伴って起こされる行動です。 
私たちの心(内側)に満ちているものが、言葉として現れるのです。 
否定的・破壊的・不寛容・マイナスの言葉を言い続けているならば、私たちの心に満ちているものもそれです。 
また、肯定的・創造的・愛・赦し・喜びの言葉を言い続けているならば、私たちの心に満ちているものもそれということです。 
  
では、私たちは何をしたらいいのでしょう。 
使う言葉を変えたらいいのでしょうか? 
いいえ、そうではありません。 
それでは、野ばらが頑張ってブドウを実らせようとするようなものです。 
しばらくは続くかもしれませんが、そのままでは枯れてしまいます。 
  
そうではなく、心に満ちているものを変えなければならないのです。 
肯定的・想像的・愛・赦し・喜び、これらすべては、神様の性質です。 
ですから、私たちは心に神様を満たすべきなのです。 
それは誰にでも可能なことです。 
なぜなら、それをなすのは人間ではなく、神様だからです。 
神様は、待ち望むすべての人に、聖霊様を送ってくださいます。 
これは間違いのない聖書の約束です。 
  
「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。 
とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13) 
  
神様の霊に満たされたなら、私たちの話す言葉は愛の言葉、赦しの言葉、喜びの言葉、光の言葉です。  
  
そしてもう一つ、とても重要なことがあります。 
心に神様が満ちて、それが言葉となったなら、それは「神様の言葉」であることです。 
もちろん、その人が神様になったということではありません。 
「神様の言葉」は、「創造の言葉」なのです。 
創世記で、神様は言葉を持って全世界を創り出しました。(1章・2章) 
また、イエスさまは宣言をもって様々な奇蹟を起こされました。 
そのように、力ある言葉、エネルギーある言葉、いのちある言葉なのです。 
  
創造の言葉を私たちが発したとき、その言葉は力を持って、エネルギーを持って、いのちを持って、その言葉を現実たらしめるのです。 
あなたが発した言葉が、あなたの周りに、環境を創造するのです。 
それは、愛の環境・赦しの環境・喜びの環境・いのちの環境・光の環境です。 
  
今は苦さを満たした野ばらやいばらでも構いません。 
神様の愛・赦しに満たされて、良い木に変えられます。 
神様の喜び・いのち赦しに満たされて、良い木に変えられます。 
神様の光をいっぱいに浴びて、良い物で満たされます。 
そして「創造の言葉」を実らせるのです。 
  
あなたのためにお祈りしています。 
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