37   詩篇 第100篇(詩篇に楽しもう02 2006.07.08第一礼拝)
詩篇に楽しもう 02
『詩篇第100篇』 詩篇第100篇
 
今週の聖書箇所は、紀元前516年の第2神殿奉献の時に歌われたと考えられている詩篇のうちの1つ、詩篇第100篇です。
破壊されていた神殿が再建され、いま一度イスラエルの民に神様を礼拝する場所が戻ってきた喜びの集会で歌われたと言うことです。
ですから、神様をほめたたえるとともに、礼拝への招きでもある詩篇です。
 
さて、皆さんが礼拝に行く理由は何ですか?
動機、目的と言い換えても結構です。
ある人はこう言うでしょう。
「礼拝に行くこと、それはクリスチャンの義務ですから。」
また、「日曜の習慣として礼拝に行っています」とか、
「行かないと、担当牧師から電話がかかってくるから」と言う人もいるかも知れませんね。
結婚していない若い人たちには、「好きな人が礼拝に行っているから」という人もいるのではないでしょうか。
「牧師の話がいい話だから」という人もいますね。
人それぞれ、礼拝に行く理由があるものです。
 
この詩篇では、礼拝に行く理由をはっきりと言っています。
それは、「神様の前で喜ぶため。喜びの声を上げるため。」です。
感謝しつつ、喜びつつ、歌いつつ、踊りつつ、神様の前に喜んで出る。
礼拝の中心は喜びだと言っているのです。
 
しかもこれは、一部の熱心な信者に向かって言っているのではありません。
「全地よ!」(1節)、つまり、すべての人に神様は呼びかけているのです。
神様を信じている人も信じていない人も、人種や性別や境遇をもこえて、すべての人への呼びかけなのです。
すべての人に、神様の前で、神様によって喜びなさいと言っているのです。
 
しかし、現実社会は、理想的なことばかりが起こるわけではありません。
喜べない状況の人も、もちろんいることでしょう。
そんな状況にあったら、喜べないのは信仰が弱いからと自分を責めるのではなくて、心の真ん中に十字架をすえてみましょう。
 
十字架、それはあなたの悲しさ、苦しさ、切なさ、やるせなさ、すべての重荷を背負ったイエスさまの十字架です。
すべての呪いを、イエスさまが一身に背負った十字架です。
ですからその十字架は、あなたは絶対に神様に見放されないし、呪われないという証拠です。
神様の愛する王子として、喜んで神様の前に出ていいという証拠なのです。
十字架がある限り、たとえ、現在の状況がどうであっても、神様の目から見たら、すべて処理済みなのです。
代々限りない神様の永遠の愛は、あなたに注がれています。
この愛に満たされて、神様の前に喜んで出ましょう。
喜びの声を、神様の前で上げましょう。
それが、私たちの礼拝です。
 
 
羊飼いがいのちがけで羊を守るように、神様の群れの羊であるあなたを、イエスさまはいのちがけで守っています。
だれがなんと言っても、あなたは神様の愛する宝物なのです。
十字架の愛で、あなたの心を満たしましょう。
神様の前で、高らかに喜びの声を上げましょう。
力いっぱい、喜び、歌い、踊りましょう。
 
あなたのためにお祈りしています。



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