56   取税人か異邦人のように (メッセンジャー18 2006.09.30第一礼拝)
メッセンジャーはイエスさま 18
『異邦人か取税人のように』 マタイ 18:15-17
 
この箇所は、マタイ福音書全体を通してもっとも難解な箇所とも考えられています。
内容が旧約聖書の律法のようであり、また、教会規律委員会の規則のようであるからです。
また、高校生時代なかなか先生の言うことを聞かなかった私にとっては、風紀委員や校則のように感じます。
つまり、およそイエスさまの言葉とは思えないのです。
「異邦人か取税人のように」それは、会堂からの追放を意味します。
現代風に言えば、教会に来ることを禁止されること、または教会からの除名を意味します。
 
確かに、罪を犯した兄弟に対して、1人で忠告するには愛が必要です。
愛ある行動です。
また、すぐに悔い改めなくても、繰り返し、めげずに説得し続ける忍耐も示しています。
これらは、イエスさまが示してくれた愛と矛盾しません。
しかし、最後が追放というのが、腑に落ちないのです。
 
人間は、自分の罪を指摘されたら、どうなるのでしょうか。
創世記3:8-13を読んでみましょう。
ここには、はじめの罪を指摘されたアダムとエバの姿が書かれています。
 
8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。
それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」
女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
 
アダムはまず神様から隠れ、罪を指摘されると、妻のエバやそのエバを造った神様のせいのようなことを言います。
また、エバは蛇のせいにします。
これが、私たちの生まれながらの性質です。
人間は、罪を指摘されると、どんどん責任転嫁するのです。
悪いとわかっていても、悔い改められないのが、人間の醜さ・弱さなのです。
 
これでは、教会追放にならないほうが難しくなります。
ほとんどの信徒は、追放されてしまうことでしょう。
残るのは、偽善者と罪をうまく隠し通せた人だけになってしまうのではないでしょうか。
 
しかし、救い主イエスさまは、このような悔い改められない私たちのために来たのです。
だから、イエスさまの結論は、追放が最後ではありえません。
追放が結論なら、イエスさまは十字架にかかる必要はなかったのです。
罪に汚れた人々を、神様の軍勢で滅ぼせばよかったのです。
しかしイエスさまは、私たちが滅びるのを選ばず、自身のいのちを十字架上で捧げたのです。
私たちを、神様のもとへ戻すために。
 
「異邦人か取税人のように」私たちは、イエスさまの生涯を通して、この言葉を開く必要があります。
イエスさまは、異邦人や取税人たちに、神様の愛と赦しと憐みを示しました。
ですから、この箇所はこういうことなのです。
「もし、正しさで責めて悔い改めないなら、愛と赦しと憐みで神様のもとへ招きなさい。」
結論は、追放ではありません。
もう一度、神様の愛、初めの愛に立ち返ることを要求しているのです。
 
現代の教会でも同じです。
初めて教会に来た人に対しては、「神様はあなたを愛してますよ」と、神様の愛を告げます。
しかし、いざ教会員になると、「ここの教会の規則はねぇ」と、正しさで責めることが多くならないでしょうか。
確かに教会には規則も必要かもしれませんが、規則について来れなくなった人には、初めの愛が必要なのです。
処罰や叱責が必要なのではありません。
いわんや除籍・礼拝禁止・追放など、イエスさまの望むところではありません。
 
この箇所の直前には、「迷い出た一匹の羊」の話が書いてあります。
また、直後には「7の70倍赦す」の話が書いてあります。
この箇所の中心が、赦しと愛ならば、文脈的にもまったく無理や矛盾がないのです。
一人の悔い改めは、神様の国、天国に大歓声を起こします。
イエスさまは、その一匹の羊のためにすべてをいのちを捨てました。
イエスさまの十字架の死、それは、永遠の赦しの約束、永遠の愛の約束なのです。
 
正しさを盾にとって責められたら、誰だってひとたまりもありません。
だから、私たちは何度でも赦しましょう。
イエス・キリストの愛を持って赦し続けましょう。
「異邦人や取税人のように」
これは、拒絶や追放の言葉ではありません。
イエスさまの愛注がれ、愛し、愛される世界のためのキーワードです。
 
イエスさまは、誰も追放しません。
イエスさまの愛は、誰も分け隔てしません。
そしてあなたは、この愛の受取人です。
もう、正しさで責め立てるのはやめましょう。
あなた自身を責めることも、周りの人を責めることも。
イエスさまの愛で赦されましょう。
そして、イエスさまの愛で赦しましょう。
あなたの周りの環境を、存分に、イエスさまの愛であふれさせましょう。
 
あなたのためにお祈りしています。



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