58   詩篇 第15篇 (詩篇に楽しもう09 2006.10.07 第一礼拝)
詩篇に楽しもう 09
『詩篇第15篇』 詩篇 第15篇
 
聖書は神様から私たちへのラブレターですから、聖書の言葉は私たちを励まし、力づけます。
しかし、うかつに読むとへこまされることもあります。
この詩篇第15篇もそのうちの1つといえましょう。
 
主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。(1節)
これはつまり、こういう問いです。
神様の家・神様の国・天国に住むことのできる者は誰でしょう?
神様とともに生きることのできる者は誰でしょう?
誰が神様に受け入れられるのでしょうか?
 
その後に書かれているのは、素晴らしい人の姿です。
詩篇第15篇は、理想的な信仰者・理想的な人間の姿を描いた詩篇として有名です。
信仰から出て来る倫理的な行動を描写して、そのような行いを促すものです。
この倫理基準を他人事のように読めば、信仰者の素敵な姿にうっとりとすることでしょう。
 
しかし、自分自身に当てはめてみると、あまりにも自分が不十分なことに愕然としてしまいます。
神様とともに生きる資格のない、自分の醜さに直面することになるのです。
呪われるべき存在である自分自身に気がつくのです。
もし、そうでないなら、あなたは嘘つきか罪に鈍感な人、自分に甘い人ということになります。
 
聖書の中心は、私たちのために与えられた救い主、イエス・キリストです。
旧約聖書はいまだ現れないキリストを指し示し、新約聖書は地上に与えられたキリストを証するものです。
ですから、イエス・キリスト、その十字架の愛を通して聖書を読まなければ、意味がわからなくなってしまうのです。
 
ここに描かれている理想的な人物は、救い主・イエスさまです。
イエスさまなら、この書かれている条件にすべて合致します。
そして、この地上をいくら捜しても、イエスさま以外にこの条件に合致する人はいないでしょう。
その根拠は4節にもあります。
神に捨てられた人を、その目はさげすみ(新改訳聖書)
主の目にかなわないものは退け(新共同訳聖書)
その目は神に捨てられた者を卑しめ(口語訳聖書)
この判断が正しくできるのは、神様の子イエスさまだけなのです。
 
このように行なう人は、決してゆるがされない。(5節)
口語訳聖書や新共同訳聖書では、「とこしえに」と書かれています。
イエスさまは、とこしえに揺るがされないのです。
イエスさまの十字架の愛は、永遠の約束なのです。
イエスさまは神様とともに住み、十字架で私たちに永遠の約束をくれました。
私たちにはこの倫理基準に達するような行動はできないけれども、十字架によって、神様の子とされたのです。
私たちが負うべきすべての呪いは、もう、十字架上でイエスさまが背負ったからです。
 
できない自分を責めないで、神様とともに住めることを喜んで受け入れましょう。
十字架の血潮によって、神様の目には、私たちはこの基準をクリアした者とみなされているのです。
私たちは愛する人の期待にこたえようと、自分を奮い立たせます。
愛あるまなざしから、力強いエネルギーをもらいます。
それと同じように、私たちを愛する神様のまなざしが、理想的な人間になるためのエネルギーを私たちに与えるのです。
イエスさまの血潮と神様の愛によって、このような者に変えられることを感謝しましょう。
変えられる価値のある自分自身を受け入れましょう。
 
完全な人、イエスさまの永遠の約束が、あなたに与えられました。
あなたはもう、呪われた者ではなく、祝福された者です。
神様とともに住みましょう。
神様とともに歩みましょう。
永遠の愛、永遠の喜びが、いま、あなたの人生にスタートします。
 
あなたのためにお祈りしています。



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