64   詩篇 第28篇 (詩篇に楽しもう10 2006.11.04 第二礼拝)
詩篇に楽しもう 10
『詩篇第28篇』 詩篇第28篇
 
第1礼拝は、3つの言葉、神様の言葉・人間の言葉・悪魔の言葉に焦点をあてたメッセージでした。
そして、第2礼拝では、3つの手、神様の手・人間(信仰者)の手・ 悪者(悪魔)の手に焦点をあてたいと思います。
 
神様の手、それは、わたしたちを愛する手です。
神様の愛によって、私たちは資格もないのに選ばれ愛されているのです。
天地創造のとき、神様の手は、いのちを与え祝福する手でした。
出エジプトでは、助け出し、支える手でした。
また、この詩篇の作者ダビデの逃亡生活も、まさに神様に支えられていました。
そして、新約時代、神様の手は、私たちの救いのため・和解のために、イエスさままで捧げる手なのです。
ですから、「御手のわざ」(5節)、それは、私たちに差し出された神様の愛・赦し・救いなのです。
 
悪魔の手、それは、人間の手を神様の手から離すための手です。
いのちの源、いのちの創造者(神様)から、私たちを引き離すための手であり、神様以外のものを握らそうとする手です。
悪者の手は、神様の手以外を握っている手です。
悪魔によって握らされていると言ってもいいでしょう。
彼らは、自分自身の手のわざ(お金・名誉・地位・努力・経験・知識など)を誇ります。
悪魔に握らされたものを掴んでいますから、愛の神様の手を握ることができません。
ですから、神様の愛を受け損ねてしまうのです。
 
彼らは、主のなさることもその御手のわざをも悟らないので、主は、彼らを打ちこわし、建て直さない。(5節)
神様は、誰一人として滅びることを望んでいません。
彼らが神様からの手を受け取らないから、神様は立て直そうにも立て直せないのです。
 
人間(信仰者)の手、それは、神様に向かって上げられる手です。
私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。(2節)
神様に向かって上げられる手、それは、神様に対して自分自身を明け渡す手です。
 
2歳の次男タリタは、イスの上や階段から、私に飛びついてくることがあります。
そのとき、彼の手は私に向かって上げられているのです。
それだけで、「僕を受け止めて」というメッセージが伝わってきます。
これは、タリタだけでなく、幼子が親を信頼してすべてをゆだねる表現でしょう。
不完全な私の手でさえ、彼の期待に応えるように、彼を受け止めます。
いわんや、完全な愛の神様の手は、なおさらのことです。
一度だけ、私が気がつく前にタリタが飛んできて、受け損なったことがありますが、神様に対してそういう心配は無用です。
 
また、手を上げるという表現は、祈り・賛美の別表現でもあります。
人間(信仰者)の手は、神様に祈り、神様をほめたたえる手でもあるのです。
 
神様に自分を明け渡し、祈り、ほめたたえる。
そのとき、神様の愛の手のわざは、私たちのものとなります。
それは、私たちの思い通りに神様がなるのということではありません。
そうではなくて、私たちの人生に、神様の思い通りに恵みと祝福が注がれるということです。
それは、祝福あふれる人生のはじまりです。
「自分の思い通り以上の人生もある。」このことを、私たちは知るべきです。
これは一部の人だけに与えられている特権ではありません。
みんなに与えられているチャンスなのです。
神様の愛の手は、私たちみんなに差し出されています。
 
神様からの祝福は、もう、あなたに注がれています。
悪魔によって握らされていたものを放しましょう。
手を上げて、神様の手を喜びほめたたえましょう。
神様の中に飛び込んで、しっかり受け止めてもらいましょう。
神様からの祝福を、しっかりその手で受けましょう。
あなたが思いつきもしないような祝福の人生が、いま、始めるのです。
 
あなたのためにお祈りしています。



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