65   罪人を救うために (ラブレター15 2006.11.11 第一礼拝)
あなたへのラブレター 15
『罪人を救うために』 1テモテ 1:12-17
 
キリスト者になる前、私は一時期、工場で勤めていたことがあります。
時には、上司と飲みに行くこともありました。
飲み屋で聞かされる話は、決まって次のようなものでした。
「俺も昔はワルだった・・・・」
 
どういうわけか、自分の悪さ(罪)を強調するのです。
悪さを強さと勘違いしているのでしょうか。
あるいは、その後の努力・立身出世を誇りたいからでしょうか。
現在の自分を持ち上げさせるために、過去の悪さを持ち出しているようです。
つまり、「悪いことをした自分も強くてすごいし、立派に更生した自分もすごい。」という理論です。
私もその理論どおりに、悪いことをし続けていました。
 
この聖書箇所でパウロも、過去の自分の罪をさらけ出しています。
私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。(13節)
彼は、キリスト教会初期の最大の迫害者と言っても過言ではありません。
しかし、「それがこんなに立派になって、俺ってすごいだろう」と、パウロは言っているのではありません。
過去の罪を心から悪いものと認め、その上で、選び、任命し、認め、赦してくれたイエスさまに感謝しているのです。
 
パウロはとても熱心なユダヤ教徒でした。
ですから、キリスト者の迫害というパウロの罪は、自らの正義によって生じたものです。
あるいは、イエス・キリストに対しての無理解・無知によって生じたものでした。
 
しかし、私はどうだったでしょうか。
私の罪は、自らの勝手な正義にもよっていないのです。
悪いと知っていながら、あえて悪いことを行なっていたのです。
完全な勘違いの人生でした。
そして、その悪いことを止めることができない罪人だったのです。
いえ、罪人というより、罪の奴隷だったのです。
 
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(15節)
罪の奴隷となっている人に、この言葉は光を投げかけます。
あなたは、罪の重さに絶望しなくてもいいのです。
人生はいつからでもやり直せるのですから。
もう、罪はあなたを縛ることができません。
イエスさまは、その人の救いと解放のために来られたのです。
また、私たちは罪を忘れられなくてもいいのです。
罪の赦しの体験は大切なものです。
その体験は、恵みの受け手として、感謝の捧げ手としての人生の土台になるのです。
 
しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(16節)
パウロが与えられた赦し・憐れみは、イエスさまを信じるすべての人に与えられます。
パウロが体験した神様の愛は、すべての人に注がれるのです。
2000年間、多くの先輩キリスト者たちがこの愛を注がれてきました。
そして、みじめな罪の奴隷だった私も体験しました。
パウロのような自らの正義から出た罪も、私のように自らの悪から出た罪も、神様の愛の証拠・イエスさまの十字架は見捨てないのです。
もちろん、あなたの罪も。
 
過去の罪も、現在の罪も、無知の罪も故意の罪も、イエスさまの十字架は、すべてを背負うのです。
「あなたの罪は、イエスさまによって、すべて赦されました。あなたは、神様の子どもです。」
 
この言葉を覚えていてください。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。
 
あなたのためにお祈りしています。



| 前週へ | 年間目次 | 次週へ |


ホーム 集会案内 伝道師紹介 Message 2008 御言葉の旅 歴史(年表) リンク集 Message 2007 Message 2006 Message 2005
Message 2004


gospelhouse@church.ne.jpメールはこちらまで。