アドベント2006 01
『イエス・キリストの系図』 マタイ 1:1-17
アドベントとは、イエスさまの誕生を待ち望む期間です。
今週からアドベントになりますので、これから何回かはアドベントのメッセージになります。
今週の聖書箇所は、新約聖書の冒頭です。次の言葉で始まります。
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。(1節)
アブラハムの子孫とは、アブラハムに与えられた祝福の約束を受け取る者ということです。
また、ダビデの子孫とは、救いの約束を成し遂げる者ということです。
つまり、祝福と救いをもたらす救い主イエスさまの系図ということです。
なぜ救い主なのかという説明はありません。
旧約聖書の冒頭、「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)と同じ形式です。
旧約聖書に親しみ、系図を重んじたユダヤ人にとって、この章は大変興味深く、引きつけられる内容だったのです。
しかし、現代の私たちには、ちょっと苦手な箇所ではあります。
今週は、この箇所から神様の愛を開いていきましょう。
系図は、14代ずつ、3つのセクションになっています。
始めの14代は、アブラハムからダビデまでです。
祝福の約束とそのとおりの繁栄を示しています。
王の時代、繁栄の時代ということができるでしょう。
真ん中の14代は、ダビデからバビロン移住までです。
背信と衰退の歴史の14代、ユダヤの国が崩壊するまでの時代です。
背信と衰退、喪失の時代です。
最後の14代は、バビロン移住からイエスさままでです。
国を失った後の流浪と絶望の時代です。
また、救い主への熱望の時代ともいえます。
これは、ただユダヤの歴史というだけではなく、私たちの人生も同じだと思うのです。
私たちの人生にも、喜びの時期、失敗の時期、悲しみと絶望の時期、熱望の時期があります。
私たちは、喜びの時期には、神様にたくさん祝福されている気がします。
そして、失敗すると、神様に見捨てられている気がしてしまうものです。
でも、そうではありません。
神様は決して私たちを見捨てません。
なぜなら、人間はいつも不合格、不完全だからです。
ちょっと調子がいいとか、ちょっと失敗したではなく、いつも不完全なのが人間なのです。
最初の14代の系図には女性4人が記されています。
そのうち3人(タマル・ラハブ・ルツ)は、異邦人です。
神様の祝福を受ける約束の外にいるとされていた人です。
また、3人(タマル・ラハブ・ウリヤの妻)は、普通でない夫婦関係によっています。
タマルは、ユダの息子の妻です。
ラハブは遊女で、ダビデはウリヤの妻と不倫関係でした。
まさに祝福され、成功しているように見えるときでも、しっかりと失敗してしまうのが人間なのです。
次の14代は王の記録です。
善悪7代ずつの王が記されています。
善い王を○、悪い王を×として表すと次のようになります。
ソロモン○、レハベアム×、アビヤ×、アサ○、ヨサパテ○、ヨラム×、ウジヤ○、ヨタム○、アハズ×、ヒゼキヤ○、マナセ×、アモン×、ヨシヤ○、エコニヤ×。
善い王の次が、必ず善い王というわけではありません。
いくら、神様の祝福をしっかりと体感した善い王といっても、自分の息子すらきちんと指導できないのです。
最後の14代は流浪の果ての衰退です。
ここは、旧約聖書および新約聖書には記述がありません。
ですから、聖書からここを詳しく知ることはできません。
ただはっきりしていることは、王家の末裔は、貧しい大工のヨセフということです。
ここに、イエスさまの系図があります。
神様は、他の人を選ぶこともできたはずです。
系図を重んじるユダヤ人にとっては、汚れすぎた系図です。
女性4人の名前を記さなければ、よかったと考える人がいるかもしれません。
悪い王を省略することもできたはずです。
しかし、ここにこそ神様の愛があるのです。
神様の愛は、失敗している人にも注がれるのです。
私たちの神様は、決して見捨てない神様なのです。
喜びのとき、悲しみのとき、裏切ったとき、失敗したときも、神様はいつも私たちと一緒にいます。
そして、どんなに落ちぶれたとしても、神様の愛の力で回復があるということです。
そして、この無限の愛は、ユダヤ人だけでなく、クリスチャンだけでなく、すべての人に注がれているのです。
なぜでしょうか。
それは、神様の愛と祝福の約束があるからです。
そして、その約束をした神様が誠実な方であるからです。
今日は、礼拝の後、ゴスペルハウスのメンバーのななえちゃんの誕生会をします。
パパとママは、誕生日のためにたくさん準備をしてくれました。
ななえちゃんの誕生日をお祝いするためです。
でも、誕生日以外の他の日も、もちろん、ななえちゃんのことが大好きです。
ななえちゃんは、パパとママの大切な宝物だからです。
そして、私たちはみんな神様の子どもです。
神様の大切な宝物なのです。
私たちは、どんなときも、神様に見捨てられることはないのです。
子どもの頃、誕生日はとっても待ち遠しいものでした。
ワクワクして、祝福あふれる日です。
イエスさまの誕生日を、ワクワクしながら待ちましょう。
それは、私たちへの祝福が形となってあらわれた日ですから。
あなたのためにお祈りしています。
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