7   幸いです(2) (メッセンジャー12 2006.02.11)
シリーズ メッセンジャーはイエスさま 12
『幸いです(2)』 マタイ 5:4
 
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
 
先週に引き続き、至福の教えの第2番目です。
この箇所をイエスさまが語ったとき、聞いている弟子たちの驚きは先週以上のものだったでしょう。
なぜなら、ここで使われている「悲しみ」という言葉は、最上級の悲しみを意味する言葉だからです。
最愛の肉親(子ども・配偶者・親など)を失った時に使う言葉だったのです。
 
人間は、本来、喜ぶべき者として造られました。
神様が最初に人間に語った言葉は、祝福でした。(創世記1:28)
しかし、アダムとエバがつみに陥った結果、人間の世界に罪が入り込んだのです。
ですから、現実生活の中では、神様との断絶が生じました。
そして、悲しまざるを得ないことも少なくないのです。
 
悲しみとは切っても切れない現実社会の中で、私たちが大きな悲しみに沈まない方法があります。
それは、建て前を立てて生活することです。
本音を隠して、建て前を飾って、嬉しいときも悲しいときも作り笑いをしていればいいのです。
そうすれば、大きな悲しみも通り過ぎていきます。
しかし、そこには大きな悲しみもない代わりに、心からの喜びも失ってしまいます。
自分自身を失ってしまうと言ってもいいでしょう。
 
私たちが、自分自身を失わないでいようとすれば、この世界において、悲しみは必然です。
神様は、私たちが自分自身を失うことを望んでいません。
聖書にこうあります。
わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。(イザヤ45:5)
神様は、「私は私だけ」と言ったのです。
また、
「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」(創世記1:26)
とも言われました。
つまり、神様が他にはいない大切な存在であったように、人間はかけがえのない存在として造られたのです。
私たちは自分自身を捨ててはいけないのです。
 
私たちが自分自身を得て、神様の光に当たるとき、私たちの罪が見えてきます。
光が強ければ強いほど影も一層濃くなるように、神様の強烈な聖さの前で、私たちは自分自身の罪深さに直面するのです。
それは大きな悲しみです。
肉親が死んでしまう最大級の悲しみよりも大きな悲しみでしょう。
なぜなら、それは自分自身が罪の中に死んでいることを発見するわけですから。
 
しかし、イエスさまは言いました。
「その人は慰められるからです。」
悲しむ人のためにイエスさまは来られました。
イエスさまの生涯は、常に悲しむ人とともにいたのです。
イエスさまは悲しむ人のために来るだけでなく、十字架にかかって、いのちをかけて愛してくれたのです。
 
イエスさまの十字架を、あなたの悲しみの真ん中に迎えましょう。
そして、思いっきり泣きましょう。思いっきり悲しみましょう。
その時のイエスさまの顔は、・・・笑顔です。
イエスさまの慰めは、ただの慰め(マイナスを埋める)ではなく、自分自身を生きる希望(無限大のプラスへ)です。
自分自身を生きましょう。
心いっぱい悲しみ、心いっぱい喜ぶ、神様の大切な作品として。
 
あなたのほかにあなたはいません。
あなたは、かけがえのない、たった一人のあなたなのです。
イエスさまとともに、心から喜びましょう。
イエスさまとともに、心から悲しみましょう。
自分自身を、生き抜きましょう。
 
あなたのためにお祈りしています。



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