8   幸いです(3) (メッセンジャー13 2006.02.18)
シリーズ メッセンジャーはイエスさま 13
『幸いです(3)』 マタイ 5:5
 
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
 
「現代文明の病気は、力への暴走ととらえることが出来る」
これは、ある心理学者の言葉です。
彼の言葉を待つまでもなく、学力、権力、武力、経済力などなど、力のある者が世界を牛耳っているのが現代社会でしょう。
そして、その力を得るために、人はあくせくしています。
このような現代の私たちにとって、今週の御言葉は大きな投げかけをします。
 
ここで柔和と訳されている言葉は元来、不当に抑圧された奴隷を表現するときに使う言葉だそうです。
奴隷が支配者に反撃を起こせば、それはもう奴隷ではなく、暴徒です。
ですから、ここでの柔和は、不当に抑圧されているような環境すら受け入れ、そこで生きるということなのです。
そのためには、徹底的に自分の弱さを受け入れることが必要になります。
そして、徹底的に自分の弱さを受け入れるためには、本当の強さが必要になります。
 
私たちは弱く醜い存在ですから、自分の弱さを認め、受け入れる強さがありません。
弱点をつかれると、相手を威圧し弱さを隠すことがあります。
また逆に、卑屈になったり、開き直ったりすることもあります。
前者が外部への攻撃とすれば、後者は自分自身への攻撃とも言えるでしょう。
いずれにしろ、自分自身の弱さをそのまま認め、受け入れることはなかなかできないことです。
私たちは、自分自身のこの反応に気がついたとき、自分自身の中に柔和がないことを思い知らされます。
 
そうです。私たち自身から出る柔和は、不完全なものなのです。
おそらく、柔和といえるような代物ではないのです。
しかし、そんな惨めな私たちを神様は見放しません。
神様は私たちに柔和をプレゼントしてくださるのです。
 
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)
 
ここで与えられる柔和は本物です。
不当に迫害を受け、死刑判決を下され、なじられ、そしられ、裏切られ、殺されることさえ、完全に受け入れることができる柔和です。
それは、イエスさまが私たちに示してくださった柔和です。
その本物の柔和が、神様の御霊(聖霊様)によって、私たちに与えられるのです。
 
キリスト者の柔和とは、イエスさまに支えられて、イエスさまの与えてくださる聖霊様のプレゼントによって成立するのです。
決して、自分自身から出るものではありません。
自分を誇る人は、神様の国を相続する必要がありません。
自分自身の国を作ればいいのです。
しかし、自分自身の弱さを徹底的に認め、神様のみを誇り、神様の力を待ち望む人は、本物の柔和を得、神様の国を相続するのです。
 
ここ3週間のメッセージで、私は1つのことを強調するように示されました。
それは、「自分自身に絶望すること(人間に絶望すること)」です。
それは決して投げやりな生活ではありません。
まず第1に、自分自身に絶望することは、本当の希望を得るためです。
不完全な自分の絶望し、完全な神様に期待するとき、その期待は失望に終わることがありません。
本当の希望は、神様から来るのです。
そして第2に、自分自身に絶望することは、自分自身を生きることなのです。
徹底的に弱さを認め、自分を飾らず、自分を捨てず、それを自分自身として生きる。
そのときに、私たちは本当に生きているといえるのです。
 
神様は完全に自由な方です。
私たちの規格どおりに動かれる方ではありません。
ですから、神様からのプレゼントの贈られ方、受け取り方は各人各様です。
神様は、私たち一人一人の最適なタイミングで、最適な与え方でプレゼントを下さるのです。
ちょうど、名医はそれぞれの患者の状態に最適な処置・処方をするように。
 
絶望せざるを得ない自分自身を受け止め、生き抜きましょう。
そして、神様を心から期待して待ちましょう。
その希望は、失望には終わりません。
 
あなたのためにお祈りしています。



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