9   幸いです(4) (メッセンジャー14 2006.02.25)
シリーズ メッセンジャーはイエスさま 14
『幸いです(4)』 マタイ 5:6
 
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
 
現代は、日本においてもサンパウロでも、あまり「飢え渇く」という体験をすることがありません。
水道の蛇口をひねれば水は出るし、レストランの裏口に行けば食べ残しがたくさん捨てられています。
しかし、イエスさまの時代、今から約2千年前のユダヤの地では、「飢え渇く」という言葉はずっとリアルなものでした。
 
たとえば、旅人がラクダに食べ物などの荷物を積んで砂漠に出たとしましょう。
もしも、道に迷ってしまったなら、どうなるでしょうか。
強い日差しに照らされ、吹き荒れる砂あらしの中で、食べ物が尽き、水も底をついた。
砂あらしに行く手をさえぎられ、飢えと渇きが襲いかかってくる。
そのときの「飢え渇き」は、当時はリアルに死に直結していました。
 
ここで生きることをあきらめてしまえば、やって来るのは死です。
あきらめるわけには行きません。
かと言って、近くに水道もコンビニもなく、井戸を掘る力もないのです。
仮に力があったとしても、水源を掘り当てる可能性はゼロに近いのです。
あきらめるわけにも行かないが、どうしようもない状態。
これが「飢え渇く」状態です。
マントで砂あらしから体を覆って、ただ、耐えて待つしかないのです。
助けてくれる人が来るのを。
 
この旅人が私たちの人生をあらわします。
私たちは自分なりの善(義)を持って、人生の旅に出ます。
神様の聖さは、砂漠の直射日光のように、すさまじい輝きであなたを照らします。
あなたは、自分自身の善の不完全さに愕然とすることでしょう。
また、神様との関係だけでなく、人間関係においても私たちは傷つけられます。
世間の無理解は、砂あらしのようにあなたに襲いかかり、あなたは身動きが取れなくなります。
自分なりの義は尽き、あなたはくじけます。
 
あきらめてしまえば、「死」です。
自分であがいても、知ることができるのは、「自分の無力さ」だけです。
あきらめることわけにも行かず、どうしようもない状態。
それが「飢え渇く」状態でしたね。
このとき、私たちは、あこがれ、望み、待つしかないのです。
自分自身の義ではなく、神様の本当の完全な義を全身全霊を込めてあこがれ、望み、待つのです。
そのとき、「その人は満ち足りる」とイエスさまは言うのです。
 
砂漠の遭難した旅人のところに、もう一人の旅人が通りかかったとしましょう。
優しい旅人は、水を分け与え、食べ物も分けてあげました。
そして、自分のラクダの後ろに乗せてあげました。
遭難者は助けられました。
しかし「満ち足りる」状態とは言い切れません。
分けてもらっただけだからです。
もし、遭難者を満ち足らせようとしたら、通りかかった人は、すべての持ち物を与え、自分は無一物になって、彼の代わりに遭難しなければならないのです。
しかし、これは非常識な話です。
 
その非常識を起こすというのが、今回のイエスさまの宣言なのです。
イエスさまは神様ですから、神様の完全な義を持っていました。
しかし、義に飢え渇いている私たちのに義を満ち足らせるために、すべての義を与えたのです。
すべての祝福を持っていたイエスさまがすべてを捨て、祝福を失って飢え渇いていた私たちを満ち足らせて下さったのです。
すべてを捨てるために、私たちを満ち足らせるために、イエスさまは十字架にかかったのです。
十字架は呪われた者のかかるものです。
イエスさまはすべての義を私たちに与え、すべての呪い(本来、私たちが負うべき)をその身に負ったのです。
 
それが神様の愛です。
それが十字架によって示されたイエスさまの愛です。
そしてそれは、義に飢え渇いているすべての人に与えられる、神様からの一方的な恵みです。
 
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(1テモテ2:4)
 
神様の聖さの光に強烈に照らされ、
世の厳しさの嵐にもてあそばれ、
あなたの義がくじけたとき、
それはチャンスです。
本当の義にあこがれましょう。
望み、待ちましょう。
神様からのあふれる愛が、あなたに注がれます。
 
あなたのためにお祈りしています。



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