新シリーズ:インマヌエル 01 
『ヤコブのインマヌエル』 創世記 28:10-22 
  
『インマヌエル』という言葉は、元旦のメッセージでもお伝えしたように、「神様が私たちとともにいます」という意味です。 
ゴスペルハウスには、いろいろなメッセージのシリーズがありますが、今週から新シリーズとして、インマヌエルを始めたいと思います。 
  
聖書の中で、「インマヌエル」という記述は、実は3回だけしかありません。 
イザヤ7:14 
それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。 
イザヤ8:8 
ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」 
マタイ1:23 
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) 
ですから、シリーズ インマヌエルでは、この3箇所にとらわれずに、「神様が私たちとともにいます」を、よりはっきりと知るために聖書を開いていこうと思います。 
  
第1回は、「ヤコブのインマヌエル」です。 
双子の兄エサウの弱みに付け込んで長男の権利を得て、さらに父親をだまして兄への祝福をすべて奪ったヤコブは、兄からいのちを狙われて逃げるしかなくなりました。 
愛する家族(母親)や故郷から離れて、おじさんのラバンの住むカランへ、たった一人で行くことになったのです。 
ベエル・シェバからカランまでは約800キロの道のりです。 
到底1日で行ける距離ではありません。 
ヤコブは、90キロほど離れたルズの地で、野宿することになりました。 
  
私たちの常識から言えば、「自業自得」という言葉がぴったりです。 
ヤコブは、自分のずるい卑怯な行動の結果、まったく惨めな状況に陥っているのです。 
  
そんな彼に、神様からの約束が与えられました。 
夢と言葉は同じ内容を示しています。 
それは、「祝福と守り」です。 
「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。 
わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(15節) 
神様がともにいることの確約、インマヌエルの約束です。 
  
私たちクリスチャンは、ともすると、「神様とともにいるためには、聖くならなければ!」と、気負いがちです。 
そして、ヘトヘトになってしまうこともしばしばです。 
ヤコブは、双子の兄を陥れ、父をだまし、権利をかすめとりました。 
長子の権利をかすめとったということは、長子の人格の強奪です。 
霊的に言えば殺人と同じことです。 
すべてが自己中心です。 
情状酌量の余地はありません。 
  
しかし、そんなヤコブに対して、神様は「決して見捨てない」という約束をくれたのです。 
ですから、あなたがどんな人であっても、神様はあなたを見捨てることはないのです。 
インマヌエルの約束は、あなたの条件によって消えることはないのです。 
  
あなたは、「神様がともにいる感じがしない」、「神様がいるならなぜ・・・・・」、そんな風に思うこともあるかも知れません。 
このときのヤコブも同じでした。 
「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」(16節) 
ところが、神様のあわれみによって、ヤコブは気がついたのです。 
彼は喜び叫びます。 
「こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」(17節) 
  
そしてあなたにも、天国への門は用意されています。 
イエスさまは言われました。 
「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」(ヨハネ10:9) 
ヤコブのためだけではなく、あなたのために開かれた天の門があるのです。 
  
インマヌエルの約束と天の門は、ヤコブをどう変えたでしょうか。 
たしかに彼は元気づけられはしましたが、完全には変わりきれませんでした。 
20-22節の彼の言葉の端々には、彼の打算的な、ちょっとずるい性格がにじみ出ています。 
しかし、変わり切れなかった彼を、神様は見捨てません。 
神様は、もう一度のチャンスをくれる方なのです。 
これから20数年の後、彼は神様によって、はっきりと変えられるのです。 
  
あなたは、変わり切れない自分を、責める必要はありません。 
神様はあなたとともにいます。 
神様の門、天国の門は、あなたの前に開かれているのです。 
いつもともにいるイエスさまが、その門なのです。 
気負うことはありません。 
そのままのあなたで、この門を通っていいのです。 
  
神様によって、すてきな自分を獲得しましょう。  
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