4   コリントでのインマヌエル (インマヌエル03 2008.01.12 第2礼拝)
シリーズ インマヌエル 03
『コリントでのインマヌエル』使徒行伝 18:5-11
 
私は、理屈をひねったり、議論したりするのが好きです。
ですから、何かちょっと違うことがあると、ひとこと言いたくなったり、論破したくなったりします。
先日も、ある婦人からこのようなことを言われました。
「夫はカトリックだから、子どもにもそういう倫理や哲学を学ばせたいので・・・・・」
私は、つい「キリスト教は倫理や哲学ではなくって、云々」と、言いたくなりました。
 
程度の差こそあれ、だれにでも譲りにくい、譲りたくない部分があるでしょう。
その部分で、争いになってしまうこともしばしばです。
今回の聖書箇所もその一例です。
 
パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く。」と言った。(6節)
パウロはとても興奮したようです。
堪忍袋の緒が切れたようにも感じます。
パウロは何にキレてしまったのでしょうか。
答えは次の箇所です。
彼らが反抗して暴言を吐いたので、(6節)
なぜ彼ら(ユダヤ人)が暴言を吐いたのかというと、パウロが、「イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した」(5節)からです。
 
ユダヤ人にとっては、一番受け入れにくいことを、パウロが語りました。
そこで、ひとこと言って、パウロに返されて、ついには暴言にまで発展したのではないでしょうか。
このパターンは、国家間なら戦争・紛争になりかねません。
思想や宗教が悪いのではなく、人間の弱さ・醜さを見せ付けられる思いです。
 
実は、昨年4月28日にこの箇所からメッセージをしました。
それを通して、理屈好きの私も、ちょっとは温和になれたようです。
先ほどの婦人にも、「そうですね。生きた神様との出会いは、彼をきっとすてきな少年にするでしょうね。」と答えることができました。
 
ところが、パウロはそれをしませんでした。
この前の訪問地アテネで、まわりに合わせ過ぎたことへの後悔があったのかも知れません。
同胞であるユダヤ人に、うまく伝わらなかったことへの悔しさがあったのかも知れません。
ただ、私はこう確信しています。
この出来事の後、パウロは、自分の器の小ささに打ちひしがれていたはずです。
言わなくていいことを言い、しなくていいことをしてしまった後悔です。
そして、自己嫌悪に陥ります。
これはパウロに限らず、私にもあなたにも、よく起こることでしょう。
 
そんなパウロに、イエスさまは語りかけました。
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」(9-10節)
自分を責めなくていいんだよ。
あなたはそのままでいいんだ。
私はあなたとともにいる。
そしてあなたを愛している。
イエスさまからパウロへの、愛のメッセージです。
 
私たちは自己嫌悪に陥ることがよくあります。
自分もまわりも、すべてが敵になったように思うこともあります。
しかし、自分自身を責めてしまうときですら、私たちには味方がいるのです。
それは、イエスさまです。
イエスさまは、決して私たちを見捨てません。
自分自身が責めてしまう事柄でさえ、十字架につけてしまったのです。
あなたは、もう、赦されているのです。
 
もう、自分自身を責める必要はありません。
周りを責める必要もありません。
「わたしがあなたとともにいるのだ。」
イエスさまはそう呼びかけています。
あなたは、あなたのままでいいんです。
恐れないで、あなたに与えられた人生を、前進していきましょう。
 
あなたの人生には、イエスさまがいつも一緒にいるんですから。



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