シリーズ インマヌエル 03 
『コリントでのインマヌエル』使徒行伝 18:5-11 
  
私は、理屈をひねったり、議論したりするのが好きです。 
ですから、何かちょっと違うことがあると、ひとこと言いたくなったり、論破したくなったりします。 
先日も、ある婦人からこのようなことを言われました。 
「夫はカトリックだから、子どもにもそういう倫理や哲学を学ばせたいので・・・・・」 
私は、つい「キリスト教は倫理や哲学ではなくって、云々」と、言いたくなりました。 
  
程度の差こそあれ、だれにでも譲りにくい、譲りたくない部分があるでしょう。 
その部分で、争いになってしまうこともしばしばです。 
今回の聖書箇所もその一例です。 
  
パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く。」と言った。(6節) 
パウロはとても興奮したようです。 
堪忍袋の緒が切れたようにも感じます。 
パウロは何にキレてしまったのでしょうか。 
答えは次の箇所です。 
彼らが反抗して暴言を吐いたので、(6節) 
なぜ彼ら(ユダヤ人)が暴言を吐いたのかというと、パウロが、「イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した」(5節)からです。 
  
ユダヤ人にとっては、一番受け入れにくいことを、パウロが語りました。 
そこで、ひとこと言って、パウロに返されて、ついには暴言にまで発展したのではないでしょうか。 
このパターンは、国家間なら戦争・紛争になりかねません。 
思想や宗教が悪いのではなく、人間の弱さ・醜さを見せ付けられる思いです。 
  
実は、昨年4月28日にこの箇所からメッセージをしました。 
それを通して、理屈好きの私も、ちょっとは温和になれたようです。 
先ほどの婦人にも、「そうですね。生きた神様との出会いは、彼をきっとすてきな少年にするでしょうね。」と答えることができました。 
  
ところが、パウロはそれをしませんでした。 
この前の訪問地アテネで、まわりに合わせ過ぎたことへの後悔があったのかも知れません。 
同胞であるユダヤ人に、うまく伝わらなかったことへの悔しさがあったのかも知れません。 
ただ、私はこう確信しています。 
この出来事の後、パウロは、自分の器の小ささに打ちひしがれていたはずです。 
言わなくていいことを言い、しなくていいことをしてしまった後悔です。 
そして、自己嫌悪に陥ります。 
これはパウロに限らず、私にもあなたにも、よく起こることでしょう。 
  
そんなパウロに、イエスさまは語りかけました。 
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」(9-10節) 
自分を責めなくていいんだよ。 
あなたはそのままでいいんだ。 
私はあなたとともにいる。 
そしてあなたを愛している。 
イエスさまからパウロへの、愛のメッセージです。 
  
私たちは自己嫌悪に陥ることがよくあります。 
自分もまわりも、すべてが敵になったように思うこともあります。 
しかし、自分自身を責めてしまうときですら、私たちには味方がいるのです。 
それは、イエスさまです。 
イエスさまは、決して私たちを見捨てません。 
自分自身が責めてしまう事柄でさえ、十字架につけてしまったのです。 
あなたは、もう、赦されているのです。 
  
もう、自分自身を責める必要はありません。 
周りを責める必要もありません。 
「わたしがあなたとともにいるのだ。」 
イエスさまはそう呼びかけています。 
あなたは、あなたのままでいいんです。 
恐れないで、あなたに与えられた人生を、前進していきましょう。 
  
あなたの人生には、イエスさまがいつも一緒にいるんですから。  
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