メッセンジャーはイエスさま 23 
『弟子になることはできません』 ルカ 14:25-33 
  
この聖書箇所は、新共同訳聖書では「弟子の条件」、現代訳聖書では「主の弟子となる者の覚悟」という表題がついています。 
イエスさまは3回繰り返しました。 
「わたしの弟子になることができません。」(26,27,33節) 
  
この箇所は、とても緊張する聖書箇所といえましょう。 
なぜなら、イエスさまの要求をまとめると「家族や自分をも憎み、十字架を背負い、財産を捨ててしたがう。」ことがなくては、イエスさまの弟子になることができないというのです。 
さっと読むと、悲壮なクリスチャンのうしろ姿が連想されませんか。 
悲壮な不退転の覚悟で、十字架を背負って歩むクリスチャン。 
教会に通い始めの人なら、ひいてしまいますね。 
「こんな苦しいなら、遠慮しまーす!」と、元気に言えちゃいそうです。 
  
確かに、イエスさまの弟子になるために覚悟は必要かも知れません。 
しかし、この箇所から、もう一つの側面を開いてみましょう。 
その鍵は、28-30節、31-32節のたとえばなしです。 
  
「塔」を建てるとありますが、口語訳では「邸宅」と書かれています。 
ふつう塔とは、ぶどう畑の見張りの塔なのだそうですが、ここで言われている塔は、そんな小さなものではないはずです。 
費用を計算しなくてはならないほどの大きさであり、邸宅とも訳せるものなのです。 
それはもしかしたら、宗教的な塔をイメージしているのかも知れません。 
天にむかってそびえる、高い高い塔です。 
いわば、神様の国への道です。 
だとすれば、邸宅は、神様の国での住居と言えましょう。 
  
そう考えれば、塔の費用は、神様の国に受け入れられるための費用です。 
神様に捧げる代償です。 
ところが問題があります。 
旧約聖書のいけにえを見てもわかるように、神様は完全なものしか受け付けないのです。 
  
「私の父は国会議員です。」 
「母が大会社の社長です。」 
この世の生活では、役に立つことかも知れません。 
「5代も続いているクリスチャンです。」 
「兄が大きな教会の有名な牧師です」 
教会では、少しはちやほやされるかも知れません。 
しかし、神様の前では、何の価値もありません。 
  
自分自身の善行や熱心な信仰も、少しは役に立つかも知れません。 
でも、それでは塔の完成はできません。 
神様の要求は完全無欠だけなのです。 
家族のすばらしさも、自分のすばらしさも、じっくり計算するならば、足りないことに気がつくのです。 
気がつかなけりゃ、笑い者になるだけです。 
  
後半のたとえばなしは、多勢に無勢、勝ち目のない戦いのたとえです。 
これは、神様の要求と自分自身の姿をあらわしています。 
完璧を要求する神の国と不完全で中途半端な自分。 
ちょっと考えたら見込みがないことがわかります。 
「わたしの弟子になることができません。」(26,27,33節) 
イエスさまの言葉が、重くのしかかるようです。 
  
計算が合わない、見込みのない、この2つのケース。 
どうしたらいいのでしょう? 
  
第一に、「戦うのをやめる」ことです。 
頼りにしようとしていたものを、十字架につけてしまいましょう。 
十字架、それは、死と呪いと滅びの象徴です。 
地位や名誉、財産はもとより、自分の善行や宗教的な熱心さまでです。 
それが誇りとならないように、十字架につけて滅ぼしてしまえばいいのです。 
これがあなたの十字架です。 
  
そして第二に、「講和のための使者をおくる」ことです。 
神様の要求に対して、てんで足りない自分がいます。 
講和の使者がいなかったら、滅ぼされるほかありません。 
この難しい講和を成り立たせる使者こそが、イエスさまなのです。 
あなたに与えられたもう一つの十字架、イエスさまの十字架が、神様との講和を成し遂げるのです。 
あなたの罪は赦され、あなたは神様の子となるのです。 
  
頼りにしていたものに頼るのをやめたとき、本当の頼るものが与えられます。 
そしてあなたは、神様の国の民となるのです。 
あなたが神様の子・神様の国の民となるための費用(代償)の計算をしっかりすることです。 
あなたの中にある誇るべきものでは、支払いきれないことを知ることです。 
そして、最高の講和の使者、イエスさまの十字架を選択しましょう。 
  
イエスさまの弟子になりましょう。 
それは、すべてを失うことではありません。 
すべてを受け取ることなのです。 
あなた自身を徹底的に憎むとき、あなたは徹底的に愛されます。 
この愛の中で、喜んで生きていきましょう。  
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