イエスさまと話そう52 
『この人は?!』 マタイ 13:54-58 
  
今日の聖書箇所は、イエスさまの育った町、ナザレでの安息日の出来事です。 
(ちなみに、イエスさまが生まれた町はベツレヘム) 
イエスさまは30歳までの期間を、このナザレで過ごし、その後、公生涯に入りました。 
各地で神様の愛を説き、奇蹟を行なっていました。 
ナザレの住民も、イエスさまの評判は聞いていました。 
それで、安息日に会堂でイエスさまの話を聞くことになりました。 
  
彼らにとってイエスさまは、よく知っている同郷の人・隣人でした。 
さらに、イエスさまの会堂での話は、感嘆に値するものでした。 
しかし、「知っている」と思ったことで、見逃し、理解できず、イエスさまを受け入れることができなかったのです。 
過去の知識が彼らを縛ったのです。 
「この人は大工の息子ではありませんか。 
彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。 
妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。」(55-56節) 
職業や家族を見て、知っているがゆえに拒絶してしまったのです。 
  
せっかく知っているのに、本当にもったいないことです。 
同じ箇所を記したマルコの福音書には、こう書かれています。 
「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」(マルコ6:6) 
イエスさまが驚くほどの不信仰だったのです。 
そして、イエスさまは、ここでは奇蹟をしませんでした。 
おこせなかったのです。 
奇蹟を受け取る器がなかったからです。 
  
ここに、先入観の怖さがあります。 
人間の愚かさ、罪深さがあります。 
そして、これは2000年前だけの話ではありません。 
私たちは、昔の話だと笑っていられないのです。 
  
サンパウロ・ゴスペルハウスは学習塾もやっているので、子どもを連れてくる親御さん(主に母親)と話す機会があります 
彼女らの多くは、中学生のわが子を称して、異口同音に言います。 
「うちの子は何もできない。まるで幼稚園以下。まだ幼い子どものようなもの。」 
しかし、実際あって話してみると、そうでもないのです。 
彼らは、けっこう大人なのです。 
できないようにしていた方が有利だから、大人の前で振りをしている子どもさえいます。 
  
母親は、子どものことなら、自分が一番知っていると思っています。 
確かに、そのはずだったのです。 
しかし、実際は知らないこともいっぱいあるのです。 
「生まれたときから見てきた。」「一番長い間見てきた。」 
それがかえって真実を見えなくすることも多いのです。 
  
私たちは、生まれたときから親と一緒にいました。 
しかし、人生の中で、もっと長く見てきた、付き合ってきた人がいます。 
それは、自分自身、あなた自身です。 
生まれてこの方、一時も離れたことはありません。 
しかし、知っているようで、知らないことがいっぱいあるのも事実です。 
過去や現在の状況によって、縛られているのです。 
「私のお父さんが・・だったから」 
「私の家は、代々貧乏だから」などなど。 
家柄・両親・財産・学歴・地位・職業・・・・縛るものはたくさんあります。 
  
神様から遣わされた救い主・イエスさまも、受け取る器がないときには奇蹟をしませんでした。 
もし、ナザレの住民がイエスさまにかけた言葉(55-56節)を、あなたがあなた自身にかけるなら、あなたの人生に神様の愛の奇蹟はおこりません。 
しかし、あなたが神様の大いなる御わざを受け入れるなら、それはあなたの人生の中で花開くのです。 
  
あなたも神様から遣わされた人です。 
イエスさまのように、全人類の罪のためのいけにえになるわけではありません。 
使徒たちのように、福音を伝える使命があるわけではないかも知れません。 
しかし、あなただけの「遣わされた人としての使命」があるのです。 
あなたを通してあらわされる、神様の力あるわざがあるのです。 
地味なもの・派手なもの・大きいもの・小さいもの、一人ひとりいろいろあるでしょう。 
それは、どれも大切な神様の愛のわざなのです。 
あなたの器をいっぱいに広げて、愛のわざで満たしていいのです。 
  
過去や現在の状況に縛られたら、あなたの人生に与えられた宝物を見逃します。 
自分が知っている自分にとらわれるのをやめましょう。 
神様が知っている自分を手に入れましょう。 
「神様、私は何者? どうして、こんなに愛してくれるの?」と聞いてみましょう。 
神様は、必ず答えてくれます。 
そして、愛の奇蹟は、あなたのものになるのです。 
 |