7   何のかかわりがありますか (話そう53 2008.02.02)
イエスさまと話そう53
『何のかかわりがありますか』 ヨハネ 21:20-25
 
イエスさまが十字架にかかる前日、ペテロは、「どんなことがあってもイエスさまに従う」と豪語しました。
ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」(ヨハネ13:37)
 
しかし、次の日の朝、鶏が鳴く前に、イエスさまを3度知らないと言い、泣きながら悔い改めたペテロでした。(ヨハネ18:15-27)
そんなペテロに、復活したイエスさまは現れて「私を愛しますか」と3回聞き、関係を回復しました。
そして、イエスさまはペテロに、「私に従いなさい」と命じたのです。(ヨハネ21:15-19)
 
今週の聖書箇所は、その直後の話です。
ペテロは、ヨハネを見て、ついイエスさまに聞いてしまいました。
「主よ。この人はどうですか。」(21節)
ペテロには、「つい・・・してしまった」という言葉がぴったりです。
(だから私はペテロが大好きです)
このときペテロがどんな気持ちだったかは、不明です。
好奇心だったのか、対抗心や嫉妬だったのか、はずみで口からこぼれただけなのか。
聖書には書いてありません。
 
このペテロの問いに対する、イエスさまの答えはこうでした。
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、
それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(22節)
 
一見すると、「冷たい言葉だなあ」と思うかもしれません。
しかし、イエスさまの言いたいことはそうではないのです。
「私は、あなたと私との間に、他の誰も入れたくないんだ。」
イエスさまは、ペテロに1対1の水入らずの関係を求めているのです。
「私が今語っているのは、あなた!」ということです。
ペテロ個人に与えられた、イエスさまとの関係です。
ペテロだけの、個人的なイエスさまとの人生なのです。
それが重要です。
 
聖書には、はっきりとは書いていないことがあります。
「イエスさまを知らずに死んだ人はどうなるのか?」
「死んだあとに悔い改めは可能か?」
「洪水や聖絶で死んだ人はどうなっているのか?」
いろんな人が、いろんな意見を持っています。
もちろん、私にも個人的な信条はあります。
 
しかし、聖書はそれに沈黙します。
なぜなら、聖書は生きている人に向かって書かれているからです。
聖書は、死んだ人のための書物ではありません。
生きているあなたへの、神様の愛の言葉なのです。
「それがあなたに何のかかわりがありますか。」
死んだ人を神様がどのように愛そうが、私たちにはかかわりがないのです。
聖書の言葉は、生きているあなたに語られたものなのです。
 
「人類のために」ではなく、「私のために」という視点で聖書を読むとき、聖書は新しい光を放ちます。
イエスさまは「私の救い主」となり、神様は「私の神様」となります。
他の人がどうであっても、かかわりがないのです。
ヨシュアは言いました。
「あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。
私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア記24:15)
この言葉が、この人生が、あなたのものになるのです。
 
イエスさまは、あなたの救い主です。
神様は、生きたあなたを愛する神様です。
聖書は、あなたへのラブレターです。
あなたの人生は、他の誰のものでもないのです。
「他の人に、何のかかわりがありますか!」
あなたに与えられたあなたの人生を、イキイキと生きていきましょう。



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